半年を振り返って
先週、梅雨明け宣言が発表されました。いよいよ本格的な夏到来です。教会の前を通り過ぎる小学生たちもランドセルと一緒に1学期中に作り上げた図画・工作、 ピアニカ(楽器)など持ちきれない荷物を抱えて帰宅です。いよいよ夏休み。季節が劇的に変わります。
今年もこうして半分が過ぎました。季節がめぐり変わる変化は、人の一生を想起させます。わたしの生涯は、半分どころか大半が過ぎてしまった、といえる。時の流れはこちらの了解もなく、とくに人生は半ばを過ぎる頃から加速がついて、列車の窓から外を眺めるように、後ろに流れて行ったような気がします。
わたしたちはそれぞれに与えられた天寿を生きます。もし35歳で死んだモーツアルトや、31歳で地上を去ったシューベルトが、70歳、80歳まで生き永らえたら、音楽の歴史は違ったものになったかもしれません。でもモーツアルトも、シューベルトも、神がお与えになった天寿を生きたのです。あまりにも短い生涯を燃焼しきって、地球の正反対に住む、200年後のわれわれに、愛することの喜びや生きることの悲しみを深く教えてくれます。この人たちがいなかったら、われわれの人生はすこし違ったものになっていたかもしれない、とわたしは思っている。だから人生は長寿であるに越したことはないけれど、単純に、長寿を生きることは幸せで、短命で終わる人生は不幸せとばかり決め付けることができません。
新約聖書の使徒パウロの言葉です。
「わたしは戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守りぬきました。」
2テモテ4:7
(口語訳では「走るべき行程を走りつくした」でした)
なんというすごい言葉だろう。たった一日のことでも、朝、こうしようと思ったことを全うできない日の多いこと。一日のことなどではない。自らの全生涯を見渡して<走るべき行程を走りつくした。>使徒パウロ。驚嘆すべき人物だったに違いありません。
でも実際のパウロという人は次から次へと、予期しない出来事に見舞われたのではなかったか。予期しない逮捕、迫害、時には逃亡の連続。パウロに予定など存在しなかったはずではなかったか。パウロは予定したスケジュールを几帳面にビジネスライクにこなしていった・・・そうした意味あいで、走るべき行程を走りつくしたというのだろうか。
パウロのスケジュールは無論パウロ自身の考えに基づいて立案された。けれどそれは神がパウロに啓示し、指し示した神の計画にもとづくプランでもあった。パウロはトロアス(トルコ・アジア)から、フィリピ(ギリシャ・ヨーロッパ)に福音を届けようとは当初考えもしなかった。しかしそこから福音はローマに向かい、そしてさらに広いヨーロッパ全体に伝えられていった。それは根本的にはパウロの考え方ではなく、神のスケジュールに基づくものだった。
パウロほどの偉大な人物にしても、個人的には取り返しのつかない過去があった。人とは何がしか足りない部分を抱えた、欠けた部分を抱えた存在にほかなりません。そうした存在であるにもかかわらず、自分自身が間違いを犯すはずのない正しいこころの持ち主、正義の人と思い込むところに、取り返しのつかない過ちを犯す闇があります。
人は足りない部分を抱えていてもよい。開き直りとも見えるけれど、だからこそ神が語りかけてくださる。その語り欠けに自己を修正したり、修復したりすれば、人生を最後まで走り抜けるのです。神は右翼の街宣のように大音響でがなり立てることはしません。聞き耳を立て、聴こうとする思いのある心に語りかけるのです。
人生はこころのあり方で、180度変わりうるものです。神の思いを心に響かせて、走るべき行程を走りえた、そうした人生を歩めたら幸いです。人生がまだ終わらない今、できることです。
(2009年07月19日 週報より)