聖霊を仰いで!

新聞やTVで家庭のトラブルが伝えられます。杉並では海洋学者の父親と主婦である母親を、アメリカで公認会計士の資格を取った息子が、殺害して、自らは放火自殺したという出来事が起こったそうです。事件を起こした息子は、仕事にも、人間関係にも行き詰った果ての出来事でした。最近子殺しや親殺しという出来事は、毎週日本のどこかで起こっていて、取り立てて珍しいことでもなくなってしまったような観があります。こうした出来事には複雑なプロセスがあり、どちらが加害者で、どちらが被害者なのか、よくわからないという面があります。往々にして、殺されたほうが加害者であり、殺したほうが被害者ということもあると聞いたことがあります。親子関係は長い長い時間の経過の中で醸成されてくるものですから、どちらがどう、ということを簡単に極めつけることは出来ないでしょう。それほど親であること、子であるということは、ただそうしていればよいというということでなく、努力も忍耐も、ストレスも求められる、容易でないものがあるということなのかと思います。

人間は自分が何者で、どれほどの問題性を抱えているかということに、意外なほど気づかない存在なのかもしれません。キリストの弟子たちのことを引き合いに出しても、そのことは当てはまります。後々大きな足跡を残した人々ですから、かれらが最初から可能性のない、どうしようもない人々というわけではなかったはずです。けれど、なんとも惨めで、不様な失敗をしてしまったものです。弟子たちは足をすくわれたのです。どんなに敬愛するキリスト御自身から予告されても、自分たちが主を否定するなど、ばかばかしくてまともに受け取る気にもならなかったのです。そんなことありうるはずもない。自分たちはそれほど、おろかでも、弱くもない存在であると考えていました。私たちは自分自身がどれほど善意で、正義なのか、寸分の疑いも持ちません。でもそのように見つめている自分自身は、結構着飾った自分で、裸の人間の内面は、思う以上に、虚偽とエゴに支配されているものなのかもしれません。すくなくも弟子たちは、予想もしなかった状況の変化の中で、心の中にある思いがけない虚偽性やいざとなればキリストさえ裏切ってしまう心の弱さのあることをみせつけられたのでした。

それはキリストの弟子たちだけに限ったことなのでしょうか。それとも、だれの心の中に潜んではいるものの、そうした出来事に直面していないので、自分では知らないだけのことなのでしょうか。やはり人間の内面というものは、自分でも見えにくいのではないでしょうか。弟子たちはあまりに極端に自分自身の正直な内面の姿に直面させられたのです。神なしに、キリストなしに適当にやっていけると考えるところに、思い違いがあります。追い込まれて、自分自身の心の実相に気づいて、全面的に神に従うことなしに、人生を生きる道のないことに気がついたのです。信仰と世俗を適当に妥協させ、あるときは私の都合、あるときは神、という生き方もないわけではありません。
やはり先週の新聞です。八王子のさるところで、警視庁の警視(警察署長クラス)の人が、シンナーを万引きしてつかまったと記事にありました。「魔がさした。」のだそうです。一本のシンナーで、つみ重ねたキャリアも、仕事も、ことによると家庭さえ失ったその人のことを思いました。

手ひどい失敗をして、神の力にすべてをゆだねようと祈り始めたところから、教会の新しい出発がありました。自分自身がゼロでしかないと自覚するところから始めるしかなかったのです。自分には正義があり、善意でもあると考えるところからは、他人を問題にすることになります。たしかに問題のない人は一人もないでしょう。でもそこからは何も始まりません。むしろ問題は難しくなるばかりです。弟子たちが自らのうちにある問題性に気づいて、新たに出発したときに、聖霊が降りました。私たちも今日聖霊を仰ぎます。神に一切をゆだねて、再出発します。

(2006年06月04日 週報より)

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