「できれば、せめてあなた方は、すべての人と平和に暮らしなさい。」 ローマ 12:18

ローマは、言うまでもなくそこにバチカンがあることから、キリスト教とは切っても切れないつながりを持った町です。ローマを訪ねる人はまず列車で着く人も、空港から到着した人も、まずテルミニ駅にたどり着きます。<テルミニ>とはテルメ(浴場)から来ています。じつはテルミニ駅のすぐそばに巨大なディオクレティアヌス帝のテルメ跡が聳え立っています。見上げるようなモザイク画もあり、ただただ圧倒されほどの巨大であり、当時はどれほど美しかっただろうと思います。東京でいえば、東京駅前の丸ビルと言ったところでしょうか。これを建設したディオクレティアヌス帝(在位284年-305年)はキリスト教撲滅のための大迫害をローマ帝国全体で展開した皇帝として知られます。キリスト教徒はすでに宮廷内でも、軍隊の中でも大いに数を増していた。しかし当時のローマ帝国ではアウグスタス(初代皇帝)以来皇帝は自ら神と称し、皇帝礼拝を強制していた。ただの人間にすぎないひとりがすべての権力と富を握って、自身を神と呼ばせる。周りがそう仕立てたとしても、その罪は深い。しかししばしば巨大なった帝国を一つにまとめるために、国民を引っ張るために強力なリーダーを必要とする。その時リーダーは神とみなされるほどの指導性を持たせるべきと考えるありかたは決して特別でなく20世紀にあちこちで見られたものだった。まして2千年前のローマにおいて皇帝に逆らうものとみなされた人々は無慈悲に排除されたのでした。

唯一の神のみを「神」とするキリスト教徒への迫害は苛烈を極めた。ローマで使徒パウロは皇帝ネロにより斬首され、ペトロは逆さ十字架につけられ殉教したといわれる。しかし勝利したのは全く無力で、非力なキリスト者だった。帝国をあげてキリスト教を撲滅しようとしたディオクレティアヌス帝は失意のうちに皇帝職を去らねばならなかった。そした直後にキリスト教はローマ帝国の国教となった。むろんそのことはキリスト教が迫害される側から迫害する側に立場を変えたという点で実は不幸な出来事でさえもあった。

そして一説によるとディオクレティアヌス自身が奴隷の身分であったともいわれている。ことによると前半生の屈辱的なあり方が、逆に権力的生き方をめざす土台となったかもしれない。そうした不幸な時代状況の中でパウロは「できれば、せめてあなた方は、すべての人と平和に暮らしなさい。」と語った。表面的にはローマの平和―パックス・ロマーナと言われる平和とは程遠い現実の中で、パウロは真に平和の神が平和を実現してくださることを確信していた。

「できれば、せめてあなた方は、すべての人と平和に暮らしなさい。」とパウロはローマの教会員にかたりかけた。まずわれわれのうちにこの平和がかたちつくられることから、世界の平和が作られていくと言えるかもしれない。

(2016年01月24日 週報より)

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