小さい子供に導かれ
(イザヤ書11 : 6)
教会にはおさない子供達が出入りします。こどもたちと言葉を交わし、心が行きかう時、あらためてこどもの心の豊かさ、意表をつくほどの純粋に心打たれることがあります。Tちゃんは昨年6月、高幡教会の屋外バザー(正式にはさつき祭)にご一家と共に参加してくれました。彼女が私のあとをついてまわっているのを見て、永山教会の石川先生がいいました。<孫もどきかい?> 彼女は、私にも、連れ合いにも親しげです。知らない人が見れば、ほんものの孫に見えても不思議はありません。ですから言葉遣いも、つい友達のような語り口になります。そこで連れ合いが、「大人にむかっては、お友達のような言葉遣いは良くないのよ!」とひと言苦言を呈したのです。その時彼女の口から語られた言葉は「だって友達なんだもん。」この話を連れ合いから聞いて、私の心は浮き立つような思いがしました。なんて嬉しいことを言ってくれるのでしょう。こどもから友達あつかいされるなんて、人生は生きてみるものだと思ったのです。
もう一人の子は、孫のMちゃん、5歳です。先週風邪を引いて、保育園に行けなくなって、教会でその日を過ごすことになったのです。彼女は教会が大好きです。ですが最近、彼女の曽祖父(父方)が重い病気を患ってかなり危険な状態にあります。その日の夕方、家族でお見舞いに行くことになっていたのです。夕方、連れ合いが「おじいちゃんの病気が良くなるように祈りましょう」と語りかけたのです。それまで快活に、楽しいときをすごしていたのですが、突然、目に涙があふれかえって、声をあげて泣き始めました。もう悲しくて、悲しくて、何を言っても泣きやませることが出来ませんでした。そのまま、泣きながら寝入ってしまったそうです。曾祖父はまだ亡くなってはいませんが、病気の苦しみと戦いながら、やがて死が近づいているのを彼女は感じ取っています。
最近身近な人の死を日本人はだんだん悲しまなくなっているような気がします。乾いた、ドライな感情が身近な人の死にも及びつつあります。なぜ悲しくないかといえば、目の前にいても心が遠く離れているからです。でも人が人と深い愛の絆で結ばれていると、死は耐え難い喪失感につながります。おそらく曾祖父がMちゃんと接する機会はそんなにしげしげとあったわけではないと思います。でも曽祖父は心からの愛をひ孫のMちゃんに注いだのだと思います。彼女は深い尊敬と愛と信頼を曽祖父に抱いていたのではないかと思います。
<年寄りが高齢で寿命を迎えることは当たり前のこと>
<この人は天国に行くのだから別に悲しまなくて良い>
そうした考え方がないわけではありません。でも人が人と深い愛の絆で結ばれていたら、死は無性に悲しいのです。納得など出来るはずもありません。巨大な喪失感に人は自分を御せなくなるはずです。
<君はわたしにとってかけがえのない大切な存在。>
この大切なメッセージが聞けなくて人は悩み、自分を失っていきます。
今週の水曜日からレントが始まります。イエスの十字架は、神があなたに向かって、神の命をかけた愛の決意がこめられています。知識の量が人を人間的にするのではなく、愛された分だけ人は人間的になれるのではないでしょうか。
(2008年02月03日 週報より)