神に知られている
なんらかの信仰に生きるという生き方は、ある意味では、最も人間の、人間らしいあり方だと思います。ほんの数日前のことでした。その日、ヨチヨチと歩き始めたばかりの孫の莉音ちゃんが、風邪で具合を悪くして、お姉さんの未海ちゃんとわが家に来ていました。夕食を食べようとして、連合いが「お祈りを。」といったその時、1歳1カ月の莉音ちゃんが、モミジのような手をあわせ、首をたれてまっ先にお祈りの体勢をとってくれたのです。彼女は、まだ日本語らしい日本語を話しません。でもこちらが話す言葉はずいぶん分かってきていました。彼女がわが家に来るのは、日曜日を除けば、具合を悪くして、保育園をお休みする時だけですから、さほどの回数ではありません。ところがこの祈りの姿勢。彼女はしっかりと人間らしく成長しつつあります。そしてわれわれ夫婦には忘れられない感動が残りました。まるでそこに天使が一人ともにいてくれたような感動でした。
われわれ夫婦は一介の田舎教会の伝道者です。人々になんとしてもキリスト教信仰をおすすめすることが使命だと信じています。でも違う信仰の人々とも、共に生きて行こうと願っています。かつてエジプトから東京薬科大学に学びに来ていた熱心なイスラム教徒の方々が、礼拝や交わりによく参加してくださったことがあります。彼らは夏のキャンプにも参加なさいました。われわれが日本の社会の中で数少ない信仰者であることを喜んでくださり、また我々も、彼らがこの由木教会の建物の中でさえ、時間になればメッカに向かって礼拝を忘れない、彼らの誠実な信仰のありかたに深い敬意を覚えました。
最近少し案じています。それは違いを認めようとしない、信仰の原理主義化というものが世界に強まっていることです。ブッシュ米大統領が民主化されたと言われたアフガニスタンでキリスト教に改宗した人が、死刑の判決を受けたと伝えられました。しかしキリスト教界であっても、自分自身の信仰や行動様式が違うとという理由で、他者を否定するあり方は強まっているように見えます。たとえ正統的な信仰の立場にたっていても、信仰の考え方、生き方は多様性に満ちています。どれが絶対的に正しく、どれが絶対的に間違っていると断定することは困難なはずです。むしろ我が方こそ神の正義であると行動したら、はかりしれない混乱が起こるでしょう。教会史をふりかえると、その感をいっそう強くします。確かに私たちは自覚的に信じ、誰からも強要されずに自由に信仰に生きています。ところがパウロが言います。
「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている・・」
ガラテヤ4:9
ほんとうは、「私が神を信じている。」 「私が神を捉えている。」という信仰の受け止め方は正しくないのです。またパウロは別のところで
「私は既に完全なものになっているわけではありません。何とかして捕らえようとしているのです。・・・わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただひとつ後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ・・目標を目指してひたすら走ることです。」
フィリピ3:12,13
神に知られているから! 神に捕らえられているから! ささやかな信仰を歩んで行くことができます。これが信仰を生きる根本のあり方です。そう信じられる時、人はたけだけしく他者に、自らの正統性をふりかざすことはしないでしょう。決定的な正義は自分の中にではなく、神にあるからです。またそう信じうる時に、人は神憑(が)かりになることから、まぬかれます。
最近奇妙な言葉を聞きました。『教会は民主主義ではなく、神主主義である。』というのです。教会は会議、合議こそ重んじてきました。ローマ教皇の選出ですら、コンクラーベという会議できめられます。神主主義という言葉のマジックで、民主主義的な原則を否定して、自分の考え方を、神の考えであるかのように、人に押し付けるようなことは、カルトなどの宗教犯罪でよくあることです。<天声人語>を<天声自語>と取り違える過ちを犯してはならないでしょう。
自分自身が神に捕らえられていることを知っている人は、他の人も神に捕らえられている存在として尊重します。そこに限りなくともに歩む可能性が広がるはずです。キリスト教には、独り言の閉じこもりの社会の中から、共に歩む世界に押し出す契機があるはずです。
(2006年03月26日 週報より)