キリストの前で

時折、私たちは人類史の終わりに近い部分を生かされていると言われます。とは言え、終わりがいつかを知らされてはいないのだから、別に嘆くことも慌てる必要もありません。その上、個人としての私自身はもうすでに若くはない。この数年、健康だけが取り柄であった私の身体は狭心症、突発性難聴、パーキンソン病と、どう見ても老人であることを意識せざるを得ない現実においまわされています。

以前、ある精神科医が雑誌でこんなことを語っていました。
「自分のことを考えると、非常に思慮深い、老人臭いことをやっているかと思うと、若々しい気持ちのこともある。最近、その私に席を譲ってくれた若い女性がいた。自分ではそのつもりがなくても、そういう年回りに見えるようになったということである。たまに『お若く見えますよ』と言われる。こ゚の言葉こそ高齢者に向けられる言葉である。でもこういう自分自身、心の中は20歳代のときと、さほど変わってないように感じている。
子どもを育てるというテーマで言えば、大人が子どもの中にちゃんと下りていける。そういうおとなであることが、子育てで大事なことです。つまり、子どもとどこかで本当に対等になって、どこかで、ちゃんと遊べるということ。モノが言えるということ。そこまで下りていける人間性。50代。60代。70代。それらしい自分を築いているからこそ、下りてゆける。それは、その年齢になれば自動的にそれらしくなるということでは決してない。そうしたおとならしくない、大人が増えているのである。」

確か星の王子様であったか、「おとなはだれでも、はじめは子供だった。しかしそれを忘れずにいるおとなはいくらもいない。」とサンテグジュペリは書いていたと思う。思えばキリストはなぜ私のところまで下りてきてくださったことか。わたしたちはキリストの前ではあるがままの自分でふるまえるから。そう思うと黄昏にも希望を抱くことができる。

2023年9月10日 週報の裏面より

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