だれかが弱っているなら・・・
世間では、強がったり、いきがったりしなければ生きていけないように思い込んでいる人々がいる一方で、全く職につかないで、疲れ果て、閉じこもったきりで20歳代、30歳代を過ごす若者も少なくありません。ひとにはそれぞれの生き方、人生のプロセスがあります。作家や、作曲家の生涯を見ていると、耐え難い不幸、あまりに外れたと思える生き方に、創作の源泉が見つかると思えるフシがあります。苦難・労苦に直面することはつらい経験ですが、それは決してそれだけに終わるものでなく、人生という舞台で何かを生み出し、何らかの結実をその生涯に結ばせるものだと思います。
使徒パウロには教会の戦いがありました。宣教の拡大とともに迫害の増幅、教会内の対立や無理解。問題は日毎に巻き起こりました。その中で語られた言葉です。
その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、私が心燃やさないでいられるでしょうか。
コリントの信徒への手紙2 11章28-30節
このパウロの言葉は不思議な言葉です。だれかが弱ると、人は彼をなんとか鼓舞したくなるものです。
<弱さに負けるな><強くなりなさい><強くなければ生きていく資格はない>
常日頃、弱さは克服しなければならない課題と教えられ、言い聞かされ、信仰や宗教も、精神修練のひとつの場として受け止められている部分もあります。信仰者は心の強い、モノに動じない人間でなければならないとも受け止められます。でも、実際、世の中に弱さを抱えていない人間など、いるのでしょうか。いるとすれば彼は起こしてしまった不祥事すべてが、他人の責任として、すべて責任転嫁できれば完璧な人物として名前を記すことになるかもしれない。
「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。」
パウロ流にものを言えば、人を鼓舞しない。自分も強がらず、他人にも強さを求めない。そのかわりに<心を共鳴>させます。弱さにも、居場所があります。音楽もフォルテッシモばかりではありません。ヴァイオリンや木管がしみじみと、ピアニッシモに鳴り響くことが、オーケストラでは絶対的に必要なのです。人の心が、やむにやまれず、弱さに立ち至るにはプロセスがあります。そのプロセスに共鳴し、よりそい、共に涙を流す。決してそれを無視したり、軽視したり、蔑視しないで、共鳴することをパウロは勧めているのです。それは強がったり、鼓舞したりするよりはるかに忍耐が要るだろうし、努力も要る。だからこそ、道なきところに道を作り出すのです。見失った希望が、そこからまた見えてくるのです。
パウロの言葉はさらに進みます。
『「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」』・・・だからキリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。・・・なぜなら、わたしは弱いときにこそ、強いからです。」
同12:9,10
そこに言われる<強さ>は、他人を支配したり、叱咤激励する力による強さとは別物です。人間の限界を容認し、人間の弱さを知りつくした上で、神を仰ぐ力強さをさすのです。他者の弱さに共鳴できる心は、しなやかで強い。それはまさにイエスキリストにおいて実現している。いつそこに到達できるのだろう。
(2010年04月18日 週報より)