それでも私は未来を信じます
昨日の夕刊によると、4月2日、警察庁の集計で、東日本大震災の死者は、11,938人、届出のあった行方不明者18,085人、避難所にいる人は166,000人と伝えられました。加えて収束の全く見えない原発災害。地震からはすでに3週間が経過しますが、被災地の状況は、神戸や、中越のときとはことなり、まだまだかなり劣悪で、高齢者や病人が避難所で亡くなるケースが続いていると伝えられました。教会も、震災の影響下におかれています。
福島市にはホーリネス教団の教会があり、20数名の信徒が集っていますが、4月から牧師のいない教会になりました。それまでいた牧師は横浜教会に転任となり、仙台教会の牧師が兼任となったのです。専任牧師を失った教会員は、どういう思いで送り出し、今朝の牧師のいない礼拝をどうむかえているのだろうかと気になっています。1000年に一度あるかないかの大震災に加えての原発災害で、不安が不安を呼び、人によってはこの震災がどこか、世の終末さえ連想させるほどの不安が印象付けられています。原発・核の問題を抜きにしても、地球はかつて生命が死に絶える気象の大変動を何度も経験してきたことです。過去に巨大隕石の落下を示す場所はいくつもあると聞きます。そのたびに、恐竜や動植物の死滅が繰り返されてきた。
天災だけでも、人類の存亡を左右する重大不安ですが、今回はそれに加えて、ハンドリング可能とタカをくくってきた原子の火が暴走を始め、核の力の真の恐怖をわたしたちは改めて学習しています。しかし、現代の日本よりもはるかに貧しく、弱小だった2000年前のユダヤに生きた イエス・キリストは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:33,34)と人々に語られました。当時のユダヤは、事実上ローマの属国でした。権力者は強欲で残虐でした。人々は希望のカケラすら抱くことが出来なかったはずです。人々は将来に何かを信じることなど出来ない時代でした。希望を見出すことも難しかったでしょう。それでもイエスは<神の国 ― つまり神が支配すること>そして<神の義 ― 神がおられるからこその神の正義と善意>を信じることを人々に求めました。2000年前も今も、いずれの道しかないのです。不信と不安か。あるいは神の視線を感じ取って、神の善意の腕を信じるのか。信じられない不安感は、一方で運勢・占い・数多くのカルト宗教を生み出してきました。同時に人間を役に立つか立たないかの見方から、負け組・落ちこぼれ・ぬれ落ち葉などの造語を生み出してきました。その根本に神をも、隣人をも信じられない<不信感>が土台します。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)不信のどん底にあった弟子のトマスに、復活したイエス・キリストが語りかけた言葉です。トマスにとってキリストが復活したなど世迷言(よまいごと)でしかありませんでした。しかしキリストという存在はトマスの理性をはるかに越えた存在でした。トマスは彼の生きる世界も、神も、キリストも、彼の理性の中にすっぽり納められるものと思っていたのです。しかしキリストはトマスをはるかに超越した存在でした。ましてその方の視線と愛が私にそそがれていることは、今、なおさら想像しがたいことかもしれません。だからこそ、それは信じることなのです。信じられないからこそ、信じる。そこに信仰の意味があります。
(2011年04月03日 週報より)