アドヴェントを迎えて
今日からいよいよアドヴェント(待降節)<クリスマスを待つ4週間>に入ります。あくまでも待ち望む日々ですから、教会の伝統においては、この間は聖なる救い主を迎えるべく心備え、心清める日々でなければと考えられてきました。その点、日本では忘年会シーズンです。肉を断ち、祝い事は避けるという伝統的なアドヴェントに徹することは難しいでしょう。
さらにいえば、日本のクリスマスは、キリストなしのクリスマスです。以前12月24日に聖夜礼拝をするとアメリカ人宣教師に説明したところ、24日はファミリータイムで礼拝などする時ではないと強硬に反対されたことを思い出します。違いあう文化の中で、育まれてきたクリスマスの祝い方は、キリスト教国といっても、それほど違うのかと面食らったことがあります。
クリスマスの祝い方はそれぞれですし、楽しむことも良しとすべきです。でも、誕生日の祝いに、主役がいないのでは、座がシラけるのでは? と思うのは余計なことなのでしょう。それでもやはりクリスマスです。キャンドルを飾ったり、美しいクリスマス音楽、クリスマス・キャロルは必須のアイテムです。そこに、やはり決して通常のお楽しみではおさまらない、清さを願い、神を求める根源的な心の求めが現れているのだと思います。
マリアとヨセフと幼子イエス。背負っていた背景は、人々の冷たさ、あまりに貧しい身なりで旅路を行く聖家族へのつれなさ、さらには暴君ヘロデによる幼児虐殺という信じられない狂気が迫っているにもかかわらず、3人は平和でした。現代という世界。少なくもわれわれの周りでは、 一人ひとりがそれなりに喜び楽しむ道は、いかようにも広がっています。
でも、町を歩きつつ、人々の幸せそうな顔はあまり見ないのです。通りを歩けば不機嫌な顔、顔、顔。幸せそうに振舞いたくても、出来ないのです。あちこちにつながるべき関係が切れて、心と心が通じなくなっているからです。物があっても、愛が途切れる時代なのです。
馬小屋にたたずむヨセフは、妻を馬小屋で出産させねばならないほど貧しかった。現代と違って恋愛結婚などなかった2000年前のユダヤ。夫のつとめは最低限の家庭生活がまかなえる財力を持つことだったでしょう。マリアの出産は最低を通り越した動物並みの出産でした。マリヤはヨセフを恨み、怒りをぶつけて当然だった。でも一家には不思議な神の愛が照り輝いていた。確かに愛があれば、貧しくとも喜んで生きていけます。あふれるほどの金銀があっても、愛がなければ関係は崩壊します。それは時代を超えて変わることはありません。ヨセフは妻が馬小屋でイエスを出産することを避けるすべはありませんでしたが、ヘロデの虐殺を予測し、これを避ける直感は冴えていました。家族への深い愛が、家族に起こり来る出来事を直感したのです。そも、幼子イエスは神の愛のあらわれでした。ヨセフとマリアは、この神の愛に捕らわれて、お互いへの不思議なきずなを確信したのでした。マリアはヨセフの献身に近い愛に支えられて、慰めと平安を失うことがなかったのです。
現代の日本で、様々な人間関係が亀裂を生み、危機に瀕しています。その間で、信じあうことより自己正当化が、愛し合うことより一方的にみずからの被害感情を押し立てることが、あちこちに見られる様な気がします。いま静かに神を信じること、自らの罪に向き合い、神に許しを仰ぎつつ、困難の中にいる人のために、心励ますひとことのあたたかい思い、こころざしを送れたらどんなに幸いなクリスマスになるでしょう。
(2009年11月29日 週報より)