苦難は希望につながる
3月最後の主日―日曜日を迎えています。つまり年度が切り替わります。進学や就職で新たな人生にふみ出す若者が多くいる一方で、働く場所を奪われ、住む家すら無くす人々のことが報じられています。
先週行われた牧師の全国大会で、愛知県で活動していたブラジル人の教会が、予想もしない経済の暗転で苦しい状態に追い込まれていると、日系ブラジル人牧師から涙ながらに報告されました。でも彼は「直面する状況は、わたしたちの信仰を強めています。」と力強く語りました。
いま様々な苦難に見舞われている人々がいます。経済に関する事柄ばかりではありません。周囲の人々に対してやさしくなれない自分の性格に途方にくれる人。深刻な病気に直面して将来への希望を失う人。人の生には次から次に困難が舞い込んできます。
使徒パウロの言葉です。『(私は)「苦難をも誇りとします。」』(ローマ5:3) 口語訳では「患難をも喜んでいる」と訳されます。冒頭のブラジル人牧師は、共同体がほとんど崩壊しかねないような危機の中で、これはわれわれの信仰を強めるのだといい、使徒パウロは苦難・艱難が、人生に忍耐、練達をもたらし、最終的に希望を生み出すと語ります。(ローマ5:3)
常識からすると、苦難は行き詰まりそのものです。一人の人生が行き詰まると、それは波紋のように周囲の人々を巻き込んで、一人の問題だけではすまなくなります。人はいかに行き詰まりを回避できるのか、一旦行き詰ってしまったら、以下に速やかに行き詰まりから脱出できるのかを画策するのです。
しかし、パウロの言葉はすべて正反対です。人が直面する苦難は、忍耐、練達、希望への苗床になるというのです。普通の感覚では、<困難>と<希望>は何のつながりもない、正反対の概念です。しかしパウロ的な視点、視座を得ると、正反対の事柄が、当然の結果のように結びつく可能性があるのです。
人生を生きるかぎり、問題や危機と全く無縁で過ごすはずはありません。病気もあれば、事故もあります。他人はこちらの都合に合わせて行動してくれやしません。自分の状況や、気分に従って物事が進むはずもありません。むしろ逆です。ことが、こちらの思ったとおりに進み、いつも気分最高に進むことが当然とすると、一生かかっても人は幸せになることはできないような気がします。おなじ状況に遭遇して、一方はこれは希望への通過点と受け止め、他方は不幸そのものと受け止めるこころの違いはどこにあるのでしょう。
<信仰>という永遠への視座を持つ人と、少なくも今という<刹那の視点>しか見ない人の違いと受け止めることができます。目に見えるところは誰が見ても不幸な現実。不幸な人。不幸な状況と考えられるかもしれない。けれど少し見方を変えれば、その困難、艱難が、希望に隣り合っていること、人生の練達につながっている事実でもあるのです。
不幸としか見ることができない状況に、現実の風景に逆らってでも、将来の希望を見つめて生きることができるのです。困難が希望をもたらします。だから、キリスト教信仰に生きる意味あいがあります。信仰の心を持ち続けることは、練達した、安定した人生をもたらすのです。
(2009年03月29日 週報より)