神の真実

何年か前にこんな事件がありました。サラリーマンのA氏は、遅くまで仕事をし、そのまま仲間と一緒に徹夜のマージャンで大勝ちしたのです。翌朝、そのツキをパチンコでも持続しようとして、朝一番にパチンコ屋に繰り出し、願ったとおりに、めったにあたることのない<ラッキー・セブン>をひき当てたのです。わたしなどはパチンコ屋の前を通っただけで臭ってくるタバコと聞こえてく騒音と軍艦マーチ(?)だけで、本能的忌避感がありますが、好きな人にとっては、それがたまらないらしいのです。だって、パチンコの売り上げは30兆円もあると聞きます。もらってきた給料をすべて、その日のうちにパチンコに、使い果たす人だって少なからずいるのだから。
しかしA氏のツキは、それまでだった。彼は<ラッキー・セブン>を引き当てて、その瞬間心臓発作を起こして、人生を終えてしまったのです。ニュース・ショウなどでこれを伝える人々は、格好の題材として、面白おかしく伝えたのです。レポートするものも、そのニュースを新聞で読み、TVで見るものも、そこにある漫画性に、失笑を漏らす人は多かった。

しかし、彼の死を慟哭し、枯れ果てるまで涙を流した人々もいたのです。彼の妻、父母、子供たちです。一命を落としたご本人は、精一杯に責任ある仕事をはたすハードワーカーでした。仕事の後のマージャンも、何とか人間関係を円滑にしようとする彼の熱意の表れだったかもしれません。ニュースを伝えるアナウンサーのふと漏らした薄笑いは、この人はわたしと何の関係もない、他人であるという意識から来るものです。他人には漫画的に見えても、かけがえのないわが子であったら、そのように行動せざるを得なかった息子の置かれた状況を知って、そのぶん多くの涙を流すことになります。侮蔑的で、冷酷なニュースにしてしまうのは、人間の真実をさらに掘り下げていない取材の浅さから来るものかもしれません。

他人には笑いの種でしかないようなことが、人の生涯には多かれ少なかれあるのではないでしょうか。家族からすら嫌悪され、見下されかねないような弱点や汚点が人間にはあるのす。なかには自分がどう見られているかすら全く無自覚で、他人の客観的な眼から見ると、相当ひどいのに、本人だけは社会的地位や、収入から、自分はりっぱな人間と自分を受け止め、自戒、反省などの気持ちを全く持たないという場合も多くあります。人は自分の心が見えないのです。だから平気で他人のことを酷評することができます。

クリスマスに主イエスが馬小屋にお生まれになったのは<インマヌエル>(共にいる)のためでした。またマタイ福音書の最後の言葉は、主イエスが昇天なさるときに語られた言葉で締めくくられています。「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」(マタイ28 : 20)神は人と共にいる決断をされて、その愛のかぎりを傾注して、どれほど裏切られたことでしょう。人は自分の都合や意見を先行させて、神の声を聞こうとしない存在です。そう堅く決断したつもりが、いつの間にか決断を反古にする存在です。時代が変わった。状況が変わった。・・・しかし神はクリスマスにも、復活にも、昇天においても<わたしはあなたと共にいる。>と表明してくださるのです。

<あなた>は神にとって他人ではないのです。<あなた>と呼ばれる時点から、あなたは、神にとってかけがえのない存在なのです。

(2007年04月29日 週報より)

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