神がともにいてくださるから
人生においては、明日何が起こるかわかりません。今年も、もうまもなく3月です。幼稚園や保育園という初めて家庭から集団生活に入る幼子たち、進学や就職という新たな変化に直面する多くの若者がいます。親も本人たちもどうなっていくのか、期待と心配が交錯して、子供たちが乗り越えて行ってくれることを祈るような気持ちで眺めています。かと思えば会社生活を卒業して家庭に帰る、定年退職をまえにしている団塊お父さんたちも多くいます。男たちにとっては安閑としておられません。ぐずぐず朝からのんびりしていようものなら、濡れ落ち葉などと非難されます。家事の協働は、時代の常識になりつつあるからです。この先どうなっていくのか、だれもが不安を少し感じながら、与えられた環境に順応して行こうと考えていることでしょう。牧師の仲間では慣れ親しんできた教会を、本人の意思ではなく、離れなければならないという人もいるようです。
人間にはどうしても越えなければならない川があります。アフリカの野生動物をうつしたテレビ番組を見ていました。何千頭もの群れをなして生活している野生の牛ヌーが草を求めて、場所を変えるために川を渡るのです。川には必ずといってよいほど、ワニが、彼らが来るのを待ち受けているのです。全体からすればごくわずかですが犠牲になるものがいます。それでも草地にたどり着くために、かれらは川を渡らねばならないのです。
イスラエルの人々もかつて、砂漠を越え、約束の地に入るために、長いつらい放浪生活を強いられました。しかしヨルダン川を越えて<乳と蜜の流れる約束の地>に入ったら、すべてが終わるのではありませんでした。むしろ約束の地に導きいれられてから、人々は神の民らしさを失い、社会は混乱し、人々の心はすさんだのです。振り返ってみると、砂漠の中で飢え渇きつつ、神の真実を求めて歩んでいたときが精神的にははるかに充実していたのでした。
時折思います。若者はそうして川を越える経験を積み重ねていきます。若者にとって、川の向こうには草地もあるし、水も豊かです。こころざしと努力で、いかようにも実現できる世界があります。ですが中高年、高齢者の場合は川の向こうはあまり好ましいものばかりではありません。川を越えるごとに身体が弱っていきます。私の知人(男性)が70歳を前にしてたぶんアルコールの取りすぎもあって、日常生活があやしくなってきたのです。私は他人のことばかり心配しているけれど、本当は自分のことが一番問題なのかもしれません。たとえ何千万円のたくわえがあったとしても、この弱り行く肉体と精神の狭間にあって経験する孤独と苛立ちに、なんの役にも立たない。そこで役に立つのは信仰以外の何ものでもないのです。
荒れ野の旅の終着点で、神はヨシュアに言いました。
ただ、強く、大いに雄雄しくあって、私の僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。
ヨシュア記 1 : 7
教会に生きていて、本当に慰められるのは、高齢者の信仰の先輩たちの歩みを見るときです。病気をかかえ、死を前にして、凛として与えられた情況を受け止めようとされる方々をしばしば見てきたのです。そうした方々の周辺には家族のあつい尊敬が払われています。そうしたよき模範を見て、わたしもなお川を越えて行く勇気が与えられます。
若者よがんばれ。私の仲間の中高年もがんばろう。高齢者の方々、よき模範をお願いします。通過する世界の向こうにあるのは救いの世界なのだから。
(2007年02月25日 週報より)