キリストにささえられ

世の中には<自分が他人の期待に答えられる人間である>と確信して、自信にあふれて生きる人がいる一方で、<他人から何の期待もかけられていない。>と思い込んでいる人もいます。私が幼いころ、親は戦後の混乱の中で、私のことは忘れていたわけではなかっただろうが、仕事のこと、困窮した引揚者の対策で精一杯だった。ひがみっぽい言い方になるけれど、病弱だった兄への関心はあったが、わたしはほぼ完璧に近い(?)放任状態だった。きっと放っておいても大丈夫とでも思われていたのだろう。したがって勉強に関しては、親からも教師からも、何の期待もかけられない、今で言うところの落ちこぼれだった。
私にはわけのわからない授業についていけず、 何も期待もかけられずに、意味のない時間を教室に押し込められている子供たちの苦痛が分かるのです。

人間の活動には多くの方向性や、可能性がありますから、一部の能力を問題にすれば落ちこぼれというレッテルを貼られる可能性は多くの人にあり得るのではないかと思います。知性は人並みだが運動能力は抜群とか、その逆の人。絶対音感を持って、音楽の能力に恵まれているひと。でも日常の経済観念は不得手で、手にしたカネはすべて使い果たしたモーツアルトのような人。きっとすべての人々が得手、不得手を抱えて生きているのではないかと思います。
人は弱さを抱えて生きているのです。何もかも均等にできるスーパーマンなどいないし、仮にどこかにいたとしたら、きっとだれも必要としないつまらない人間であるにちがいありません。強さは人に手を差し伸べるためだし、弱さは人から助けられるためです。そこに他者とのかかわりが生まれ、人生はよりいっそう彩りにあふれるものとなるのです。

ところで福音書に描かれる主イエスの弟子たちは、みじめという外はないほどのつまずきと失敗をさらします。イエスが復活した後ですら、弟子たちの不安と不信は払拭されたわけではありませんでした。それでも、イエスは弟子たちにすべてを託して、天に帰られました。弟子たちが以下に弱さにあふれかえった存在であるか、だれもが知っていたはずです。相手が主イエスでなければ、返上できるつとめなら、弟子たちはすべて返上したにちがいありません。でもそうすることはできなかった。主イエスとのかかわりを切り離したら、弟子たちの人生には何も残らなかっただろう。
弟子たちの宣教もそうでしょうが、われわれの人生も、われわれのものであって、われわれのものではありません。神がわれわれに遣わしているのです。能力も、不能 力も、得手も、不得手も、神がわれわれの人生に与えたものです。もちろんわれわれは必死に努力し、勝ち得てきたものも少なくないでしょう。それでもどうにもならないことがいくつもあります。
主イエスは弱さをたくさんかかえた我々を、<地の 果てに至るまで、私の証人になりなさい。>(使徒2:8)と言われました。常識的な言い方をすれば、弱さをかかえ、失敗を重ねる弟子たちが、主イエスの証人になりうるはずはないのです。でも主イエスはあえて、そうした使命を与えたのです。可能性からすればゼロに近いのかもしれません。でも主イエスはそう命じました。主イエスは信頼と期待をこめてそう言われたのです。
人間は、ダメだ、ダメだと、ダメ人間の烙印を押されていると、本当にダメになってしまうのです。その逆に、多少の躓きと失敗の過去があっても、主からの信頼と期待という一方的愛で支えられていることを知った弟子たちは、立ち上がれたのです。

弟子たちはやがて数十年を経て、ある人は殉教者に、ある人々はヨーロッパに、アフリカに、インドに宣教に出かけ、華々しい働きを担いました。でもその原点はキリストへの不信と不安の中で、ついにはキリストを裏切ってしまった傷ついた過去をもつ普通の人に過ぎませんでした。普通の常識ではおしはかれないキリストの愛が、この弟子たちを創ったのです。永遠普遍のキリストの愛は、そうしてわれわれにも提供されています。

(2007年02月18日 週報より)

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