人を召される神
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
ローマの信徒への手紙 12:1
人が有能であってもそうでなくても、金銭に恵まれていようとそうでなくても、健康であろうとそうでなくても、そういうこととは全く無関係に、神は人のすべてを求めておられます。イスラエルを民族としてかくしからしめた最大の事件は、旧約聖書によれば出エジプトの出来事でした。それを実現に至らしたのは80歳の老人モーセでした。神から与えられたその指名をモーセは嫌いました。個人の能力からすると、それはできるはずのない大役だったからです。モーセはその働きを返上することしか考えつきません。モーセは神に言います。自分は「口が重く、舌の重い者なのです」(出エジプト4:10)
モーセは自分のことが分かっていたからこそ、神の指名を拒否したのです。
けれど神が召し出そうとしたのは話術にたけ、四角いものも丸いのだと言いくるめてしまうおしゃべりではなく、40年の荒野の生活で苦しみぬき、神にも、人にも、自然に対してさえ深い尊敬を払ってやまない寡黙なモーセでした。というのは、彼はかつてひと時の正義感から、殺人を犯した過去を持つ人です。いわば若い時の罪の過ちから、人の目を避け、砂漠に人生を埋めた、疲れ切った80歳の老人。
通常、人は学問を備えた、弁舌に秀でた若さと力のあるリーダーを求めます。40年前、モーセはエジプトの王子でした。彼はまだ若く、それらしい資格を備えていました。とはいえそれらしいき見せかけは、裸の自分とはかかわりのない、表面づらの虚構にすぎませんでした。そうした本来の自分とは無縁な思い込みはたちまちはがされます。ひと時の激情から、彼は一人のエジプト人を殺します。ついカッとして・・・人を傷つけてしまった。しかし大半の人は自制をするのです。
それだけでしかない人間であることをモーセは知っていました。40年の砂漠の孤独の中でモーセはそれだけでしかない自分の姿に向かい合ったのです。そして…神はそのそれだけでしかないモーセを採用したのです。出エジプトの出来事はまさに神の業でした。神がご自分のために人を召すのは、その人の力や価値によるのではありません。むしろ<それだけでしかない自分>を自覚できているか否か、どれほど人が自らの無力と無価値さを自覚して、神の全能に依存できるかが大切なのです。
(2015年10月11日 週報より)