「ガラスが壊されています・・・。」
教会の前を通り過ぎる小学生たちは、普通はじゃれあい、ふざけあって通り過ぎます。11月4日の午後、ベルがなって、教会の玄関に二人の小学6年生のお嬢さんが現れました。二人の表情は真剣でした。「あのー、ガラスが壊されています・・・」一瞬、車のガラスが打ち破られたのかと思いました。急いで外に飛び出して見回すと、車は異常ありませんでしたが・・・教会の看板を見ると、カバーのガラスがみるも無残に打ち破られているのです! 横・178センチ×縦・100センチの看板は、夜は蛍光灯のライトがつき、厚さ3ミリほどの一枚ガラスでカバーされています。これが素手で割れるはずがありません。大ケガをしてしまいます。バットを使ったか、たぶん蹴破ったのだろうと推測しました。
看板の受けには無数のガラス破片が砕けて、きらきらと陽に輝いています。下は小さな花壇になって、大小無数のガラスが散乱していましたが、かなり頑丈なガラスですので三分の二はひびが入ったまま枠にしがみついていました。
現代は何でも起こる時代ですから、この程度のことはどこにでもあるのかもしれません。でもその日、私はただちに片付ける気が起こりませんでした。たぶん、前夜、だれかが、通りすがりに酔いにまかせて行ったことでしょう。とはいえ、教会の看板のガラスを打ち破る心のすさみは、哀れというほかはありません。 なぜ? 何のために? そこに理由があるはずはありません。
そういえば前日は近くの大学の大学祭で、早朝の4時前後にも大勢の学生が、酔って教会前を大声で歩き回っていました。中にはかなりの冷え込む夜明け前の川沿いのベンチで、7時すぎまで眠り込んでいた学生もいました。でも、大学生が教会の看板を打ち破るなどの狼藉を働くはずもないだろうと思いもしました。
翌日、ガラスを片付ける作業をしているとき、スーパーいなげやでの買い物帰りの数名の主婦たちが、「ひどいことするね」「警察に届けを出したほうがよい。」さらには「教会の看板を割るなんて、きっとバチがあたるよ。」などと同情しながら、通りすがりに語りかけていきます。ただ、いくら酔った上の行為だとしても、幸せで満ち足りている人がそうした行動をするはずはありません。日ごろから何らかの怒りや鬱積をかかえている人が、アルコールもてつだってこうした発展に(?)至ったとことでしょうか。
そうだとすれば、向かう相手が教会の看板であって、人への無差別な暴力ではなく、よかったともいえます。恨みや怒り、差別や偏見は時には途方もない暴力へ発展することがあります。そこに国家が関わり、意図的な他国や他民族への差別や偏見を高めるときに、国民は意外にやすやすとそれに乗せられ取り返しのつかない途方もない悲劇を招くことがあります。
本日をさかのぼる70年前、1938年11月9日ナチ支配下の全ドイツで、ナチ突撃隊(SA)によるユダヤ人への暴力が振るわれました。数多くのシナゴーグが破壊され、7000近いユダヤ商店が襲われ、数え切れないユダヤ人が殺され、数千人のユダヤ人が強制収容所に送られたのです。その夜のことを破壊された家々のガラスが炎に輝いて<水晶の夜>と呼ばれているそうです。
酔っ払いの戯れ事であれば私はすぐに忘れます。しかし、国家や軍隊による組織的暴力は人は心の中に深く刻むべきです。ごく一部の政治家、官僚、軍人による繰り返される歴史の歪曲には繊細にならざるを得ないのです。
かつて2千万のアジアの民を殺戮したかつての日本の皇軍はどの国の軍隊よりも残虐で冷酷だった。だからこそ日本人は平和憲法に立ち至ったのです。こころの問題としても、社会的、政治的課題としても、平和実現は根本的に大切な事項です。
今回の出来事、破砕されたガラスを見つめて、私は70年前に、ドイツ全土で荒れ狂った差別と憎悪によるユダヤ人迫害に思いをはせずにはおられなかったのです。イ エスの誕生において天使たちが歌った歌「地には平和!」を今年はいっそう強く訴えようと心に思ったのです。クリスマスはもうすぐです。
(2008年11月09日 週報より)