忘れられない出来事

フィリピン人の娘さん

われわれ日本人もその一員であるアジアにおいては、多かれ少なかれ、どの国もなにがしか、欧米による植民地化という歴史の軋轢の中で、途方もない苦しみを負わせられたことです。それは今もなお過去の出来事として葬られたとは言えず、今もなお途方もない苦しみを負わせられている国があります。今、大統領によって非常事態宣言がなされたフィリピンは確かにそうした国のひとつです。フィリピンは、かつての冒険家マゼランの登場によってその悲劇の歴史が始まったのでした。マゼランは直ちに当時の島民といさかいを起こしフィリピン現地人に殺害されたのでした。マゼランは征服者であり、殺戮者でした。フィリピン現地人が行った行為は、今から言えば正当防衛的なものであったはずです。しかし実際にはきわめて凶暴な現地人によって、世界一周の夢に生きていた冒険家がその夢を断たれたように伝えられます。
他国の人間が言うことではないけれど、国名をフィリピンとしたのも、当時世界最強といわれた<無敵艦隊>を保有するスペイン王フェリーぺ二世の名前を取って命名されたのです。
フィリピンの人々の名前はいまだにスペイン風の名前が多いのです。大統領の名前<アロヨ>もそのひとつです。また多くのフィリピン人はかつての宗主国スペイン人の宗教であるカトリックを信奉し、共通語として話す言葉は英語です。フィリピン民主化の歩みの中でカトリック教会の果たしている役割は大きなものがあります。しかし、フィリピンの人々は近代植民地主義下で国名を奪われ、過去の文化は破壊され、なお政治は混乱を極めているように見受けられます。

十数年前、由木教会の礼拝前の出来事でした。一見して荒くれた感じの中年男が私を呼んで、教会を見たい人間がいるので礼拝を見せてやってほしいと玄関に来ました。彼に連れられてきたのは、ふたりの、二十歳過ぎの可憐なフィリピン人の娘さんでした。講壇の前にひざまづいて10分も必死に祈っておられたことです。祈り終えてその後しばらくお話をしました。一方の娘さんのお父さんはおもい病気で、父親の治療費を捻出するために彼女はどこかのナイトクラブで今働いているとのことでした。故国ではふたりは日曜の礼拝はもちろん、木曜の祈祷会、土曜日のフェロウシップにも常に出席する熱心なクリスチャンでした。私はつい質問してしまいました。「あなたたち、今幸せに過ごしているの?」
私にも子どもがいます。子どもの幸せを願わない親などどこにもいないからです。”NO”という答えとともに、たちまち美しい彼らの瞳から涙がとどめなく溢れてきたのです。ナイトクラブというところなど、覗いたこともない私には、想像もできませんが、好きでもない仕事を続けなければならない清純な若い女性を見て私は心の底からやりきれない思いがこみあげてきました。ふたりにどこで働いているのかを聞きましたが、それには答えませんでした。

通常日本のような社会ではあいまいになって見えていないことなのでしょうが、社会の中で、もっとも弱い人々が、引き当てている苦境を見せられたような気がしました。それも過去数百年の歴史や、権力や富のあり方からくる、個人としてはどうすることもできない力がそこに働いています。きっとあのころ、彼女たちは自分の気持ちを押し殺して、必死に働いていたのです。でも、日曜日の朝、屋根に十字架をかかげた教会を見て、ぜひ入ってみたいと思ったのでしょう。ただ主イエスはそうしたくるしみにある人にこそ、近くいてくださるはずです。
主イエスに対して様々なスタンスがあります。かかわりのない大勢の人々。微かなかかわりでそれでよしとする人々。熱心な真剣な求めを持ち続ける人々。異国の日本でこの二人の若い人々にとって、主イエスははかり知れない慰めになってくださったのだと思います。もうすでに20年も前のことですから、きっと今は故郷で帰り、熱心に祈り、教会生活をしておられるでしょう。

今でもあちこちにフィリピンパブはあるでしょう。いまだにそうした場所で飲んだり、遊んだりする日本という社会の中で、私は普通にフィリピンの人々と教会で向かい合いたい。

(2006年03月05日 週報より)

おすすめ