心の支えとしてのキリスト教信仰

牧師の職務のひとつに悩みを持つ人の苦しみに耳をかたむけるということがあります。牧師はカウンセラーではありませんが、いわば緊急避難的に心痛む人の来訪をうけることがあります。けれど最近は、ほかならぬ牧師自身が深い悩みを抱えて、自分にとって不都合な過去の出来事のトラウマから一歩も抜けることが出来ず、自身がいかに不当な扱いをこうむったかを繰り返し訴える事例に事欠きません。

ケースとして多いのは、やはり牧師の転任にかかわることでしょうか。牧師自身は担当教会にとどまりたいのに、教会側から転任を申し渡されるケースです。また比較的大きな都会の教会から、地方の小さな教会に転任する場合など、ある牧師によると「都落ちする気分だった。」と私に語った人がいます。そうした思いで赴任する牧師を迎える地方教会の信徒もなんとも気の毒な感じがあります。いずれにしてもそうして落ち込んだ気分、うつ状態にある伝道者は、時代のせいでしょうか以前にはなかったほど多いような気がします。

病気やしょうがいであれば医療の助けを仰ぐべきことは当然です。しかしことが病気として深刻化する前に、何らかの心の浄化ないしは昇華作用で、危機を越えることが出来ればそれに越したことはありません。挫折感に打ちのめされた時、プライドが傷つけられた時、道理が通らなくて怒りがこみ上げる時、世の中は私の意のままにならないことがあまりの多いことに気づかされます。時に私が<道理>と考えていたこと自体が過ちであることもありえます。自分の怒りが間違っていたということもあります。人は全能者ではないのです。つまり<神を信じること>が、自分自身を冷静に見つめなおすことにつながるのです。人は常に信仰に目が開かれているとは限りません。自分は数十年の信仰歴があるから、常に信仰深い、とは限りません。長い年月、牧師であり続けているから、こと信仰に関するかぎり間違うはずもない・・・と言うことも、ありません。それは本人がそう思い込んでいるに過ぎないのです。人生にべテランがいないのと同じように、キリスト教信仰にも、ベテランはいない、と私は思っています。思えばどれほど多くの偉大な信仰者と思われた人が、その晩年に信仰の道を踏みはずしたでしょうか。

ひとはつねに神の前で謙遜に、みずからを見つめ続けるべきです。そうした思いを保ち続けるなら、キリスト教信仰は心の問題についても大きな力となるはずです。人口が減少し、経済がダウンサイズィングを余儀なくされる時代、人はだれでも悩みがちです。人を励ます役割を担っている牧師も悩んでいるのです。こうした時代だからこそ、お互いにスクラムを組んで、支えあう教会共同体が共に信仰を生きる意味がいよいよ深まるのです。

(2013年02月24日 週報より)

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