カタコンベの礼拝に生きた人々

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

ヘブライ11:1

信仰に生きるとは、現在自分自身が肉眼で見ている世界を超えて、神が計画し、実現に至らせるであろう世界を、自分のものにする意識と言えます。9月6日に1日だけローマに立ち寄って、アッピア街道の脇にあるカタコンベを訪ねました。地下3-4階ほどの地中に堀りこまれた墓場が、教会が公認されるまで200年以上礼拝堂として使われたのだそうです。戸外は30度を越しているのに、迷路のようなその中はひんやりとした寒さを感じます。そこが当時は多くの死者が葬られた墓地兼教会でした。聖餐台がありフレスコ画が描かれている狭い部屋もあります。まがいもない教会です。古代ローマ市は人口百万人といわれていた大都市ですから、市外あちこちに墓地が作られ、次々と死者が葬られたことでしょう。その狭く真っ暗な墓地で200年以上も礼拝をし続けたことは驚きです。

ローマ帝国の崩壊など夢想も出来ない時代、キリスト者たちは勝利者としてのキリストを賛美、礼拝し続けました。先が見えているのなら人は我慢し続けることは可能です。しかし全く見込みもたたない中に、その礼拝をし続けることはどれほど大きな忍耐を必要としたことでしょう。

ペトロが最終的にローマに残留することを決めたクオ・ヴァディス・ドミネ教会はこのカタコンベから歩いて15分ほどのところにあります。そのペトロも殉教し、パウロも殉教するという状況の中で、人々はここで信仰を確かめ合ったのです。体制に順応するほうがどれほど心安く生きられたでしょう。キリスト教を捨てれば、市内のコロッセオではたくましい剣闘士たちの命がけで血なまぐさいショウがたのしめます。道徳や正義などに縛られることもなく、気楽に生きることが出来るのです。にもかかわらずキリスト者になる人々は次々と増えてゆきました。迫害を恐れてローマ市を去った人々も多くいました。しかしこうしたカタコンベは次々と増えていったのです。

人は衣食住が足りれば、あとの問題はどうでも良いというわけにはいきません。人生とは本当に生きるに足るものなのか、ひとは心の中にさまざまに問いかけます。富と贅沢にあふれかえったローマ社会で、キリスト教信仰はこの世的な地平では見出すことができない問いに答えを与えました。ひとが神に生きるとき権力や富や贅沢を犠牲にしてさえも惜しくない価値観こそ、キリスト教信仰でした。
膨張するだけ膨張したローマ帝国は斜陽のときを迎えていました。やがて帝国は滅びの坂を落ちてゆこうとするとき、人間の栄光を越えた神の栄光が人々の心を照らす光となっていったのです。そしてやがて皇帝自身が信仰を告白するのです。しかしだれがそんな事態を予測できたでしょう。あの狭く、暗い、地下の教会で一歩も退かないで信じ続けた人々の祈りが、これをもたらしたのです。
目に見える世界や直面する事態は、絶対的不利であっても、落胆するには及ばないのです。どんなに絶対的に見える権力もやがて去り行くものに過ぎません。ゆるぎない神の救いを信じることこそ、最終的な勝利を勝ち取るのです。

(2012年09月30日 週報より)

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