さあ、信じて、出発しよう

年末のNHKテレビで一日イタリアオペラ作曲家のジャコモ・プッチーニの作品と作曲家自身の生き方についてオペラと共に紹介する番組がありました。全部を見ることはできませんでしたが、引き込まれるようにかなりを見てしまいました。「トスカ」「蝶々夫人」「トゥーランドット」「ボエーム」「マノン・レスコー」みな魅力的なプッチーニ作品です。
よくイタリア人は底抜けに明るいといわれますが、オペラの上では(そして知りうるかぎりのイタリア人も)、底抜けに明るくなんかありません。 主要人物が結局舞台の上では全員死亡というオペラもありますし、ここに挙げたプッチーニのオペラもすべて主人公の死によって物語は終わります。ただ、ストーリーは分っているのに、美しいアリアを絶妙な声に乗せて歌われると、酔わされます。

ところでこの番組で面白かったのは、ドイツ人の精神科医が登場して、作品や作曲家自身の女性関係をたどりながら、精神分析を試みている部分です。じつはプッチーニは生涯複数の女性と様々なかかわりを持ちながらも、最初に結婚した強い女性である妻・エルヴィラと離婚せずに生涯を終えているのです。そうした複数の女性とのかかわりが、作品に反映され、あの美しいオペラに結晶されたと思うと複雑な思いがしますが、そこにオペラ作家としての天分が発揮されたのでしょう。

けれどこうした人物と連れ合った妻の立場はどうだろう。こういう浮気性の父親を持った子ども達はどう育ったらいいのだろうかと誰でも思います。ドイツ人の医師は言います。
(言葉通りではありません。録画していませんので。)「人間としてみればこんなに困った人間はいない。彼の人生をひと言で言えばエゴイズムということが出来る。しかし、じつはジャコモ・プッチーニが悪かったというわけではない。じつはプッチーニの母親は、彼が幼い頃早世したので、彼は母親の愛情を十分に受けることができなかった。女性から女性に愛情を求めたのは、幼児期のそうした出来事に基づいているのだ。・・・・」

そうなのか? そうだろうか? すると幼くして母親と死に別れた人、親の離婚で母親と引きはがされた人は、同様な生き方になっていくのだろうか。

ところが、新年になってわたしは新聞の書評欄に紹介された1冊の本を読み始めた。『「オオカミ少女はいなかった」-心理学の神話をめぐる冒険- 鈴木孝太郎著』
1920年にインドのサンダー・シング牧師が、ジャングルでオオカミに育てられたという二人の少女を保護して、人間として育てようとしたが、ついに人間の社会に適応することができなかった。人間は人間として生まれるのではなく、人間として育てられなければ、人間にはなることが出来ない。この出来事は、いかに人間は環境に支配される存在であるかが、世界中に認識させられたという事件です。
・・・ところが著者は、これはじつは真実ではなかったと様々な証拠を挙げて立証するのです。たぶん少女たちは自閉症として生まれ、親によってジャングルに捨てられた子どもなのではないかと、推測します。けっしてオオカミに育てられたのではなかった。というのです。生まれ、育ち、環境がすべてを決定付けるとすれば、不十分な環境しか与えられなかった人々はどう生きたらいいのか。母親が早くなくなった子ども達は、将来 「ドン・ジョバンニ」のように女性から女性に飛び歩く以外の人生はないのか。
生まれてくる子どもは、親を選ぶことができません。幼い子供たちは与えられた環境を変えることはできないでしょう。自分が異性関係にだらしないのは、親のせい、と居直られても困り果てます。人が環境に深く影響されると言うことは確かなことでしょう。それに完璧な親がいるわけではありません。環境がすべてではない、といってくれなければ、ひとは一種の運命論に支配されることになるでしょう。

だから人は信仰が必要なのです。われわれは不十分な親であり、不十分な人間であり、それでも受け止めて、再出発を促してくれる神がおられることを、安心して信じる必要があります。環境がすべてではないのです。この神を信じることこそ、事柄の分かれ目ではありませんか。

(2009年01月11日 週報より)

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