現実の後ろに
聖書をまず手にした人々は、創世記の冒頭を読み始めます。そこには神が世界を創造し、その世界をこそ、神が現実を見てよしとされたと述べられます。創世記の記者はそう書くのです。じつはこの創世記が記述されたのは 紀元前6世紀のことであることが明確になっています。つまりその時代イスラエルは過酷な世界情勢の中で、国家として消滅を経験した時代なのです。エルサレムは戦火に焼かれ、人々は家や家族を失い、技能、技術をもっている人々のみがバビロニヤに捕囚として連行され、多くの人々は何もなくなったイスラエルに打ち捨てられたのです。<神がみて良しとされた世界>の現実は過酷で悲惨な惨状でしかありませんでした。
まさにどこをどう見ても明るさの材料などどこにも見出すことのできない現実。あふれかえる困難とつらさ。希望はカケラすら見出すことのできない世界。しかしこの聖書を記述した人々は、そこに<神が良しとされた世界>というもう一つの視点で世界を見ようとしたのです。そしてこの時代に生きた預言者(第二イザヤと呼ばれます)は、そのような自分たちを解放する存在は軍事力や権力を持って人々に号令を発する人でなく、屠殺場に黙々と引かれてゆく子羊のようにもくもくと他者の罪責を負って歩み続ける<苦難の僕>であることを語りました。イエスキリストはまさにこの苦難の僕の実現でした。
キリスト者とはまずそうした視点に生きる人々であろうと思います。動かすことの出来ない現実を前にして、なお、そこにも神が<よし>とする現実を見つめるのです。そして「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ・・・目標を目指して」ひた走るのです。
その際、人の正義は常にといっていいほど、他者を責め、裁く立場をとりますが、キリスト教信仰にあっては他者の罪責を負うのです。他者を赦すことによって築かれるのは愛と信頼です。それは未来構築的です。様々な他者との連帯が成立します。そうした思い、志さえあれば、どんな人でも可能な生きかたになります。
キリスト者がキリストとつながっているなら、全く違った世界が見えるのです。ただ見えるだけではなく、状況を越えさせ、世界を変革するほどの力がそこに現れます。アラバマ州のバーミングハムの教会に M・L・キング牧師が講壇についたとき、アメリカ合衆国の黒人差別の歴史が変わり始めました。ライプチッヒのニコライ教会でごく少数の青年達が水曜祈祷会で平和を祈り始めたとき、ベルリンの壁が崩れる第一撃になるなどだれが想像したでしょうか。
私たちは現実に見える世界がたとえどうであろうとまどわされません。私たちはキリスト者です。私たちの背後に立たれる方を信じて、未来構築的に、様々な人々との連帯の中で、何よりもキリストの愛に生きるものでありえますように。
(2012年06月03日 週報より)