ペトロの後ずさり

ひと月ほど前から水曜日の祈祷会ではガラテヤ書を読み続けています。2章に入りパウロはエルサレム会議の後、アンティオキア教会で起こった事件を取り上げます。エルサレム会議は初代教会にとってユダヤ的伝統と律法主義と決別する画期的出来事でした。人は福音のみによって救われ生かされるのであって、ほかには何も必要としない。

せっかく到達した貴重な結論を得て、ユダヤ伝統という枷(かせ)をはずされ、異邦人伝道を目指すアンティオキア教会は、いよいよローマ帝国全域にキリスト教を伝道するための絶好のきっかけをつかみかけたところでした。アンティオキア教会ではパウロやバルナバにくわえ、ニゲルと呼ばれる(つまり黒人―アフリカ系市民と考えられている)シメオン、キレネ人(いまのリビヤ)のルキオなどが活躍していました。(使徒言行録13章の冒頭) むろん地元のギリシャ人や今で言うトルコ系の人々もいないわけがありません。それにユダヤ人キリスト者。様々な背景をもつ人々が調和と一致を保って歩んでいる教会でした。

当時の教会ではしばしばアガペーと呼ばれる愛餐会-食事会が行われていました。富める人も貧しい人もいっしょに食事を分かち合うのです。ただアンティオキア教会では、ほかの教会では行われていなかった愛餐会が行なわれていました。つまりユダヤ人キリスト者も異邦人キリスト者もともに食卓を囲んで食事を分かち合ったのです。このいまの私たちにとっては当たり前の食事が、この当時じつは当たり前ではありませんでした。ユダヤの律法からするとこれは<あってはならない、律法違反>だったからです。しかしこれこそ教会のあるべきあり方で、異邦人と同じ食卓につかない―つまり異邦人は、異邦人のゆえに汚れている、と考えるほうこそ、間違っているのです。

ある日、エルサレム教会の長老ヤコブのもとから、数名の人々が遣わされて来たのです。説明はありませんが、どうやらペトロの様子を見に来たようです。すると突如ペトロの態度が急変したのです。ペトロは共同の食事から身を引いていったのです。やがてエルサレムに帰るペトロにとって、異邦人と何のわだかまりもなく食事をする姿は、見られては困る、報告されても困ると考えたのです。ペトロばかりでなく、バルナバもその他のユダヤ人キリスト者も同じように異邦人キリスト者から身を引いていったのです。

この場は、エルサレム会議のよき成果を得て、ひとが律法の重圧から自由になることができ、異邦人キリスト者といかによき関係を作り上げることができるのかを、エルサレム教会の使節団にあかしできる絶好の機会でした。しかしペトロの態度は、一つには自己保身を図るとともに、信仰も時と場合によって、YESともなりNOでもありえる、状況次第のものであることを暴露したのです。しかも異邦人との食事を拒んだと言うことは、異邦人はやはりそのままであってはならない<きちんと割礼を受けて、形式的にユダヤ人とならなければ、われわれは君たちを受け入れないのだ>という態度表明をしたのです。

パウロがキリストの十字架を仰ぐのは、そこに自分の罪の姿をみとめ、自分こそ神の裁きによって死なねばならない罪びとであることを認めるからです。そこでは偏狭なユダヤ民族主義による選民意識など付け入る余地などどこにもないのです。しかし、だからこそ、そこにキリストの十字架によって許されている自分を見出すことができるのです。この原点に立ち続ける限り、教会においてさえ、些細な違いを差別にまでつなげ、様々に線引きをはかる意識はうまれるはずはなかったでしょう。しかし教会は残念ながらこのペトロの後ずさりを繰り返してきたように思います。あらためてイエス・キリストという原点に立ち返る必要があります。

(2013年05月26日 週報より)

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