みなキリストにあって一つ
この文章を書いたのは使徒パウロです。パウロはかつて熱狂的なユダヤ主義者で、キリスト教徒の迫害、つまりキリスト者の殺害に息はずませるテロリストでした。ユダヤ社会に限らずどの民族、どの国民もそれぞれの歴史と伝統の中に正統的な規範を持ちます。人間には何らかの規範が必要であり、現代日本の問題は「一般的に受け入れられている規範意識が低下していることからくるのでは」と思われる部分もないわけではありません。とはいえ律法はそれに従う人間のみを受け入れます。ユダヤ社会では、外国人たちは排除されました。日本は単一民族国家であると一部の政治家が時折口を滑らします。日本には在日コリアンの方々も多くいますし、アイヌの伝統と文化に生きる人々も少なからずおられます。その人々に対してかつて天皇制を土台とした国家中心主義は、言葉も名前も奪い取り、自由と人権を奪い取りました。そればかりでありません。キリスト者に対しても、天皇が神であることを強要して多くの牧師たちが拷問を受けました。
神は私たちを、個性を持った存在として創造して下さいました。私たちキリスト者は、キリストにあって<一つ>ですが、<みな同じ>である必要はありません。むしろそれぞれの<個>を尊重します。かつてのパウロは律法を超え、踏み外してしまった。人間は互いに違うからこそ他者の存在のかけがいなさに目を開かれます。
違いを生きることは周囲の違った人々と共に生きることにもつながります。違っているからこそ互いに学び合い自分に欠けているものに気づかせます。
2023年4月23日 週報の裏面より