アレッサンドロ

先週、我が家は一風変わった来訪者を迎えました。イタリア人のアレッサンドロ君。ナポリの近くの出身で、30歳の青年(?)です。風貌はナポリ出身のタレント、ジロラモ似です。ミュンヘン、マドリッド、ローマ、ロンドン、ニューヨークの超一流レストランの厨房を渡り歩いてきた旅なれた料理人です。イタリアも北のほうに行くと、おでこの大きな明らかなドイツ人風の顔が多いし、南にいくと、眼窩がくぼんでいかにもナポリらしいジロラモ風の顔つきの人が多くなります。発端はミラノにいる娘から、面倒見てほしいという電話がかかり、やむなく引き受けることになったのです。さっそく連れ合いが格安旅館の手配をしたり、メールで連絡して、そしてついに今回の一泊二日の滞在とあいなったのでした。

彼の格好は、くたびれたジーパンすがたの風来坊というところですが、腕のよい料理人のようです。でも娘もそうですが、料理人をゲストに迎えても、我が家で料理を作ってくれる機会は、皆無です。彼も我が家で包丁を持つことはありませんでした。甘い期待は最初からしません。昨年始めて日本を訪ね、京都の懐石料理に出会って、繊細な日本料理にほれこんでしまったのです。今年、帰国後7月に新たなレストランを家族と一緒に開くのだそうですが、日本料理のコンセプトを織り込んだイタリア料理をいつか実現したいのだそうです。

この話を持ち込んできた長女は、彼が英語を話すとは全く思っていなかったようです。ところが彼はイタリア・アクセントで英語を、よどみなく話しました。それもそのはずです。ロンドンや、ニューヨークのレストランで働くのに、英語が話せなければ、生きていくことはできません。彼は15歳で家を出て、15年間、放浪の料理人をしながら、ひたすら料理人としての腕を磨くことに専念してきたのです。東京駅前の一新した新丸ビルに出店したイタリア料理店のシェフとも親しい友人でさっそく訪ねてきたといいます。

料理のことはよく分からないのですが、彼には見知らぬ人とたちまち意気投合してしまう抜群のコミュニケーション能力があるようでした。彼の話は立ちどまりません。えんえんと終わることがないほど、料理に限らず、日本と西欧の文化比較のこと、日本の歴史のこと、現代世界のこと、日本料理のすばらしさを語り続けます。ですがその機関銃のような英語は、学校で習ったものではない「友達から習った。」ものだということでした。

ティーンエイジをひたすら受験を目標に過ごす大多数の日本人の若者。人生で何をしたいのかいつまでも分からずに、目標を定められずに、悩み続ける青年が多い日本の社会。他方で人間としての能力すら、学習といういわば付加価値でしか計られることのない、一種の社会的思い込みに、本人も親もとらわれます。学校は出ても、どうも面白みのない、コミュニケーション能力に欠ける人が多いのです。アレッサンドロ君はいちじんの風のようなちがった世界を感じさせてくれました。
人間努力や忍耐を学ぶことは大切だけれど、この一芸で世界にうっていける力強さとともに、他者と心と心を通じ合う誠実さを持ち合わす大切さをおぼえさせられました。友情の手を差し出すことは、場合によっては拒絶や無視を味わうことにもなりますが、友人をつくる大切な働きかけです。

彼には単純素朴なキリスト教信仰と料理という道があります。「金銀は無し。されどわがうちにあるもの」とペテロは言いました。進行形の発展途上中でもいい。この<わがうちにあるもの>を確信できたら。教育や学歴が、単なる収入をかさ上げする付加価値としか取れないような考え方は、もう古いような気がしますが・・・

(2007年05月20日 週報より)

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