いと貧しく小さなものと共に
昨日の新聞に次のような記事がありました。
見出し―<生存中の解決ぜひ 日本軍「慰安婦」被害者訴え>
「韓国の故・金学順(キム・ハクスン)さんが日本軍「慰安婦」の被害者として初めて名乗り出てから8月で20年になるのを前に、元日本軍「慰安婦」を招いての集会が21日、参議院会館で開かれました。・・・2人の「慰安婦」被害者が出席しました。宋神道(ソン・シンド)さんは宮城県女川町で東日本大震災で被災。自宅が全壊し、現在は東京に住んでいます。現在の日本の政治への怒りを語りました。韓国から来日した李容珠(イ・ヨンス)さんは「謝罪と賠償の問題は平和的に日本の責任者が解決すべきだ」とのべ、被害者が一人でも多く生きているうちに解決してほしいと訴えました。
様々な人権侵害がかつて伝えられた中で、この問題は女性に加えられた最も悪質な人権侵害といえるものです。被害にあった女性たちからはいまだに日本政府から十分な謝罪や補償が届けられていないと訴えられています。ドイツの大統領であったリヒアルト・フォン・ワイツゼッカーは謝罪するのであれば、心から謝りなさい。心からでない謝罪は、しないほうがマシである・・・というようなことを言っています。日本政府が全く謝罪してないわけではありません。しかしやはり心をこめた謝罪・補償でないことが被害者達に深い怒りを与えているのです。今は老いて、人生の最晩年に到達しているこれらの日本軍に人生を奪われた老人たちの、せめてもの願いをなぜ聞いてあげないのか、聞こうとしないのか。いまだにこうした要求を掲げねばならない不条理に情けなさを感じます。
なぜ教会の週報にこうした問題が取り上げられねばならないのか、疑問を感じる向きもあるかもしれません。日本社会は長く上昇志向がありました。いまやそうもいってられない状況に直面しています。それだけに自分は少しでも楽に、そして少しでも上昇をと言う願いも個々にはあるかもしれない。イエスキリストの宣教における最初の言葉は
「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げるために 主がわたしに油を注がれたからである。」
ルカ4:18
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」
ルカ6:20
確かに主イエスの豊かなまなざしは貧しい人々に注がれていました。富豪であればあるほど、心は貧しいのです。貧しさや、病気や差別の中にいるからこそ、見えてくる世界もあります。貧しい人々が主イエスの福音に触れて、解放される喜びは、どんなに金持ちが金銭をつぎ込んでも手に入れることなど出来ない幸せなのです。
むろん貧困も病気も差別も放置してよいというものではありません。政治や経済や福祉が有効に機能すべきです。しかし人間は貧しかろうと富豪であろうと、根源的に一人で生きていくことは出来ない。人は根源的に弱く、貧しい存在です。つまり人とは、そこに神を仰ぐことが決定的に必要な存在なのです。だからこそわれわれは、いかに心貧しい存在なのかに気づかなければならないのです。戦争という国家犯罪の中で、犠牲にされた「慰安婦」とされた人々を支えてゆくことは、当然のこの時代に生きるわれわれの責任であるのに、それをも適当な言葉遊びで、逃れようとする。そこに深い神不在の、貧しさがのぞいています。
(2011年07月24日 週報より)