気づき

この2月、「ヤコブの手紙」という映画を見ました。フィンランド・アカデミー賞で作品賞、監督賞など4部門に輝いたほか、各国の映画祭で評判を呼んだヒューマンドラマ。1970年代のフィンランドの片田舎を舞台に、盲目のヤコブという老牧師と、身寄りのない元服役女性囚とのやりとり。出所した彼女の仕事は牧師の所に届けられる多くの人たちからの手紙を代読し、返事を書くということでした。彼女の心はひどくすさんでいて、届けられる多くの手紙を内緒で捨ててしまいます。やがて手紙も届かなくなり牧師は自分が必要とされていないと感じると同時に、体の老いをも実感していきます。彼女が牧師とのやり取りの中で、少しずつ頑なな心が溶かされていくという物語。
映画の中で牧師の語った一言が私の心に強く残っています。「わたしは悩んでいる人たちを助けているつもりであったが、実はその人たちに助けてもらっていた事に気がついた」という台詞です。それで、昔読んだ本の中で死の床にある女性がん患者が言い残した言葉を思い出しました。「今、あなたは何が一番したいですか」との問いに彼女は「家に帰って買い物をして家族に美味しい食事を作り、洗濯してあげたい」と言ったのです。「元気な時、毎日毎日こんなことさせられてと思ったことが実は自分を支え、自分にとって大切なものであったことに気がついた」ということでした。

この東日本大震災を経験し、当然のように使っていた電気や水。いつでも好きな時に買えると思っていた物品。共に住む家族や隣人。それらがいかに大切なものであり、感謝な思いで受け止めるべきであった事。成長・発展への傾倒、他者を思う心の乏しさ・・・・多くの事に気づかされます。

「最上の業」という詩を紹介します。これは、東京イグナチオ教会の主任を務めたイエズス会のヘルマン・ホイベルス神父が「人生の秋に(春秋社刊)」という書の中で、「南ドイツでひとりの友人からこんな詩をもらった」と紹介しています。

最上のわざ(ヘルマン・ホルベルスの「人生の秋により」)
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のためんに役だたずとも、
親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物、
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、
真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、
それを謙虚に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。すべてをなし終えたら、
臨終の床に神の声をきくだろう。
「子よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

たとえ老いや病や社会状況によって、他者のために役に立てなくなるような状況、不便を受け入れなければならない状況の中でも失われない豊かさへの希望が与えられます。震災以来、宗教改革で有名なルターの言葉を思い起こしています。

「たとえ明日世界が終わりになろうとも、私は今日リンゴの木を植える。」

小枝 黎子 (2011年04月10日 週報より)

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