戦いをへて
わたしの長女はイタリアーピエモンテ州、トリノの東南にある小さな村に住んでいます。ピエモンテはフランスと隣接していますから、イタリアでありながら一部フランス語地域があるほど、フランス文化を感じさせるところです。トリノから東南に向かえば芳醇なバローロワイン・バルバレスコワインを産するワイナリー地域に達しますが、西南に数十キロ行った山岳地帯に、かつて12世紀にカトリック教会から異端の烙印を押されて、迫害に迫害の歴史をたどったワルド派の信仰を今なお継承する地域があります。今回帰宅してからこの地域があのワルド派を今に伝える地域だと知ってとても驚きました。そうと知っていたら、訪ねてみたものをと思ったのですが・・・
〔ヴァルド派の谷へ-近代ヨーロッパを生きぬいた異端者たち 西川杉子著 山川出版社刊〕
ワルド派は12世紀発生した、信徒による信仰運動でした。創始者がフランスのリヨンにいた裕福な商人ワルドーなる人物だったので、それがこの人々に対する呼び名となったのでした。ワルドに従う人々は全財産をなげうち、托鉢をしながら、聖書をフランス語に翻訳し、信徒による巡回説教をおこない、清貧を強調したのです。
ワルドーの精神は、あのアッシジのフランチェスコの信仰運動に酷似したものでした。ワルドーは1179年、第3ラテラノ公会議に代表を送り、教皇、司教団に団体としての裁可をもとめましたが、却下され、その上1180年には教会から異端として破門され、リヨンから追放されたのです。異端宣告の理由は「教会権威の軽視」があげられ、さらにラテン語以外の聖書翻訳も罪とされたのです。しかしワルド派はこうした強圧に志を曲げることなく、イタリア全土、南ドイツ、オーストリア、ボヘミヤ、ポーランドまで広まったのです。
けれど厳しい弾圧の結果、16世紀宗教改革時において、ピエモンテのワルド派コミュニティだけが生き延びたのです。けれどついに1686年にルイ14世とサボイア公ヴィットリア・アメデオ二世がピエモンテのワルド派を一掃することを決定したのです。サボイ家はピエモンテから一時はフランス中部までを治め、後にはムッソリーニの登場までイタリア統一を果し、イタリア王として君臨した王家です。1688年ルイ14世、ヴィットリア・アメデオの連合軍に対し谷にとどまった14,000人のワルド派が、絶望的な戦いを挑んだのです。生き残った人々でカトリックに改宗した人々もいました。しかし多くの人々はこれを拒み、悲惨な投獄の生活を強いられたと伝えられています。フランス軍の捕虜になった人々はガレー船(手漕ぎの軍艦)の漕ぎ手として徒刑囚とされた人々もいた。
しかし驚くべきことですが、この人々が、わずか3年の後には数百名の部隊を組織して、武力で谷を奪還したのです。その上、サボイア公ヴィットリオ・アメデオ二世自身が、態度を一変させて、ワルド派コミュニティーを認めるのです。ひとつにはワルド派の迫害は当時の世界的な関心事となり、特にフランスと対立していた英国が、プロテスタント国家として、ワルド派を援助することに力を入れたことも情勢の変化に影響を与えた一因でした。
今、ワルド派の村は豊かなスキーリゾートとしてヨーロッパ中から観光客が集まるとのだそうです。住民はワルド派としての信仰を生き、その過去を大切に保存しつつ、今となってはカトリックの司祭とワルド派教会の牧師とは親しい日常を過ごし、軋轢は過去のものとなっているようです。
さかのぼって12世紀にワルド派の信仰が表明されたとき、アッシジのフランチェスコが受け入れられたように、教会当局がワルド派の人々の純真な信仰心を認める心の大きさを持てなかったことが悔やまれます。信仰の課題を、憎悪や流血の対立に至らせるほどおろかなことはないように思えます。ヨーロッパの宗教戦争が、信仰だけを理由としてとして戦われたはずはありませんが、引き金であったことは否めないでしょう。キリスト教信仰は人の心の一致と和解をこそもたらすものであって、分裂や争いであっていいはずがありません。
キリスト教のかなめをめぐる問題で、人はどうして流血や排除の論理にたたなければならないのだろうかとつねづね思います。歴史に<もし>はないといわれますが、教会がワルド派の信仰を暖かく見つめていたら、ルターの改革の言葉に耳を傾けていたら、少なくも後のヨーロッパ全体を巻き込む30年戦争という宗教戦争はなかっただろうし、その後も続くカトリック・プロテスタント間の対立もなかった・・・かもしれない。教会は福音のかなめをめぐって、流血と排除は似合わない。
(2009年09月27日 週報より)