生と死のはざまで
わたしには9歳年上の兄がいる。ほんの10年ほど前に、この兄が終戦前後の出来事をわたしに話してくれました。終戦時に我が家に何があったのか、両親は決して話そうとしなかったので、わたしには何も知らされていなかった出来事です。
終戦時、兄は9歳、わたしは生まれて10ヵ月の赤ん坊でした。私の父は内務省樺太庁の官吏で、陸軍士官でした。叔父家族も樺太庁の官吏でした。1945年8月15日の日本敗戦に先立つこと1週前、当時のソ連邦が突如日本に宣戦布告して日本はソ連と戦争状態に入り、ソ連の戦車部隊が樺太の日ソ国境を破って続々となだれ込んできたのです。敗戦が決定的な状態で、人々はほとんど無抵抗のまま、踏みにじられていきました。我が家はそこに身をおいていたのです。次々と引き上げ船が準備され出航しましたが、8月22日に白旗を掲げた引揚げ船3隻が老人、女性、子ども達を乗せたまま、国籍不明の潜水艦(ソ連海軍の潜水艦といわれている)に撃沈され、1,708名が犠牲になったのです。
我が家の引き揚げは8月20日に敢行されました。その朝、母は2種類の非常食を準備したそうです。ひとつは腹もちがよいものと考え、もち米で作ったおにぎりをありったけ作り、残りは、普通の米をしょうゆで味付け、焼きおにぎりにして、車で、樺太南端の港<大泊>に向かった。大半の人々は路上を歩くほかはなく、文字通り避難民そのものに見えた、と彼は語った。
大泊港に着くと、いつ出るかわからない引き上げ船を待つ人々が路上に毛布を敷いて、10日間も野宿をしていたのです。その人々こそ、二日後の引き揚げ船に乗って犠牲になったと考えられます。
父は憲兵に港で国の官吏であることを説明したところ、一隻の船が準備されたというのです。引き揚げという非常事態の中で、人々が皆平等に扱われたのではなかったことがわかります。ところがわたしたち2家族はその船に乗らず、どういうわけか駆逐艦が軍関係者の引き揚げのために調達され、これに乗ったのだそうだ。駆逐艦はスピードが速く、しかも潜水艦への重装備の武装が備えられているので、わが一家は全く無事に稚内に着いた。先発した船はいずれも潜水艦に撃沈され、一人も救出されなかった。船の中で携帯した食料を開いてみたら、もち米のおにぎりは全部腐っており、目的地の盛岡(叔父、おばの実家)までは焼きおにぎりだけがたよりだった。
内地に入ってからの列車の込み具合は強烈だった。列車の窓から小便も大便も済まさねばならなかった。途中宿泊した施設(たぶん札幌)で供与された毛布には数百のノミがへばりついていた。盛岡に着いたとき、伯母は放心したように靴を脱いで、裸足で歩き始めた。兄は気がふれたのではないかと思ったそうだ。彼女は故郷にたどり着けた嬉しさから、故郷の大地を、裸足で感じたかったからだった。それにしても10ヶ月の赤ん坊であったわたしはどれほどお荷物だっただろう。どこかではぐれたり、置き去りにされてもやむをえなかったはずだ。
戦後、父の職場は内務省から、外務省に移った。けれどどうも、父の思いの中にはそうして生き残ったことへのためらいがあったのではないかと思う。樺太に残留した多くの人々がシベリアに抑留されたため、抑留から帰還する興安丸が着くたびに、舞鶴に迎えに出かけた。また東京・麻布に樺太からの引揚者住宅建設に心労をつくした。母も、われわれ子ども達も、その頃の父の眼中にはなかったような気がします。
おかげで私はほとんど放任状態で戦後を育った。生きていてくれればそれでよい。そんな思いだったかもしれない。でも、それで父や母の生涯のすべてが終わってしまったら、歴史の大波に翻弄されたことしか残らなかったかもしれない。
しかし、両親は最晩年になってキリスト教の洗礼を受けた。洗礼を受けて父親がどんなに大きく変わったか、それはまさに奇蹟のような変化だった。父の残した聖書はサイドラインがあちこちに引かれ、晩年の4年間でどれほど聖書を読んだかが深く記されている。母もそうだ。ガンの苦しみの中で、微笑と感謝を深く表した最期だった。わたしはおかげで自由に、放任で育てられたから、勉強には関心のない遅れた子だった。
でも思えば、激動の中で家を失い、貧しさの中に放置された引揚者のために労してくれた父の生き方を嬉しく思います。そして何よりも、平和構築、平和実現の社会を心から望みたい。
(2009年08月02日 週報より)