よりそうこと
一ヶ月ほど前のことでした。ご近所の女性が、通勤途中、堀之内駅近くで迷い犬を見つけたのです。犬好きのその方は、会社に遅刻することを覚悟で、犬の安全のため、いそいでその迷い犬を保護したのです。そして向かったところは我が家、つまり教会でした。
「かならずナントかするので、とりあえず今日・1日その迷い犬を預かって欲しい!」
私達も動物がきらいなわけではありませんが、不思議にこうしたときに人々が連想するのは教会です。全く、見ていないようで、教会の前を通り過ぎる人は何かを受け止めて、教会の脇を歩いています。
彼女はすでに数匹の愛犬を飼っています。市の迷い犬センタ-のようなところに電話をし、獣医さんのところで健康診断をしてもらい、たくさんのポスターをほうぼうに張り、持ち主を探しました。しかし全ては徒労でした。先に彼女の家にいた犬たちは新入りの彼を歓迎しませんでした。犬の共同生活は無理がありました。
結局、その<コタロー>と名づけられていたダックスフントは、我が家で生活をすることになりました!!! 推定6歳―9歳。かなり太っていて、足を骨折したあとがあり、曲がったままくっついているとの獣医さんの話です。歩くことはあまり得意ではありません。階段の上り下りは出来ません。ソファーに登ることが最大限精一杯の様子です。でも上ったきり降りられませんから、禁止されています。ひとみが少し白濁していますから、白内障が始まっているかもしれません。
でもこの犬。よく、しつけられています。朝晩の二回散歩のときにのみ、排便します。ムダ吠えはまずありません。見捨てられた精神的ショックからでしょうか、連れ合いにはいつもからだの一部を触れています。なによりもおどろくほど愛情深いのです。われわれが部屋からいなくなると必死に探します。私は彼に<寄り添い犬>とあだ名をつけました。コタローは今も私の足元にうずくまっています。
思えばわれわれ人間は寄り添うことが不得手になってしまったことだろう。やっと築けた関係を些細なことからいともやすく軽んじていく。他者との関係で、常に競い合い、上位に立たないと安心できない不安心理に追われるむなしさ。コタローは一度は見捨てられたけれど、この上ない親切な女性の目に留まったのでした。無論われわれ人間は、自立してこそ、良き隣人として隣り合うことは可能なのだと思いますが、ハリネズミのように武装ばかりして、寄り添うことを忘れた人生はあまりにも寂しい生き方に違いありません。
人は交わりに生きてこそ人間になりえます。寄り添うことのこころよさ、大切さをコタローから教えられています。
(2008年07月27日 週報より)