つらいこころを抱えた人に

ことしもいよいよ明日は大晦日を迎えます。誰しもいちおう一年を振り返ります。この一年さまざまな事件や事故がありました。何かが起こるたびに、「被害者は人から憎まれたり、恨まれたりなどとはまったく無縁な善良の方でした。」とのインタビューが伝えられました。人は出来るだけ良好な関係を周囲と築きたいと願います。善良な人生の途上で、この人々は突然なにかの事件に巻き込まれたのです。一人の人に対し、十人いれば、十色の見方があります。
かりに私ひとりとっても、由木教会牧師といっても、さまざまな人間関係があります。教会で日頃出会う人々が主たる人間関係ですが加えて近所・近隣の方々、牧師仲間がいます。さらにその外側に、夜、孤独に耐えかねて電話をしてこられる人、お金や食べ物を無心に来る人、中には今から電車に飛び込むが、その前に話がしたいのだがと電話で言って来る人々もいます。こちらの反応を試すわるい冗談かもしれないが、冗談なのか冗談でないかは、判断のしようもありません。そうしたさまざまな人々にめぐり合います。

人生は日々が出会いの毎日ですから、生涯でお互いが出会う総数など、加えれば大変な数になるかもしれません。そしてその多くの人々のうちに、わたしたち自身の姿が、よきにつけ、悪しきにつけ、なんらか記憶されていることでしょう。可もなく、不可もなし、だろうか。すくなくともTVの事件報道のように、「あの方は他人から憎まれたり、恨まれたりするはずのない、善良の方でした。」という一色(ひといろ)だけではないような気がするのです。

わたしは権力的であることが嫌いだし、権力らしい権力もないから、これを振り回して、他人を押しつぶす人間でないことを願っている。また、今のところ人をだまして財産を横取りもしていない。それでも、他人が私にこうあってほしい、という姿からは程遠いことだろう。それはそちらから見れば、わたしはその人を裏切っていると見えることもあるかもしれません。

すべての人のよき隣人であろうと願うけれど、ただ独りのよき隣人でもありえないのかもしれない。今という時代はぎりぎりまで行き詰まる人が少なくないのです。ぎりぎりであればあるほど「信仰にたって!」という勧めは耳に入りにくく、願いはストレートになりがちです。三日間、何も食べていない人にはまずオニギリです。(げんにそう言って教会に来た人が今年いたのです!)でも要求がオニギリ以上になると、もうお手上げです。要求どおりでなかったとして怒るこころに、現代の人が直面している絶望やつらさが現れています。
本当はさらにそこを突き抜け、神に到達する信仰があれば、じつは事は超えられるのです。オニギリでは数時間もすれば再び空腹に苦しむのですから。でもそれをすべての人に期待しても始まらないのです。信仰は自由ですから。それでも私はそのことが起こることを期待するのです。ただ、ときおり人々が示す激しい感情や怒りを前に多少たじろぎながら、せめてこちらは神の大きな赦しと愛に生かされて、対応出来るようにと祈りつとめた1年でした。 まずは皆様、来年こそよき年でありますように。感謝をこめて。

(2007年12月30日 週報より)

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