苦難は・・・希望を生む
苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。
ローマ5 : 3-5
私の人生を、一本の線で表すとすれば、終点を定めるわけには行かないけれど、人生はかなり最終章に近づいている、とは思えます。おかれている状況は、大きな苦しみや問題に遭遇しているわけでなく、善良で親切な人々の群れに囲まれて、夜昼、雑事に追われつつも、恵まれた日々を過ごしています。ただ、自分自身の心を見つめるとき、これでも、若い日々に持ち合わせていた、他者への鋭い批判や否定的見方が、多少姿を消して、おおらかで受容的で、同情的に他人を見つめることが多くなったような気がします。先鋭さが欠けて、寛容になったのです。一つには、様々な困難な歩みをしている人々と出会い、世の中には私などが知るよしもなかったつらい人生を生きる人がいたことを知ったのです。私のような人間は、たとえ学んでも、カウンセラーにはなれない人間です。対象との間に距離をもって客観視などできないのです。単純に相手に同情し、むしろ相手と同化してしまうからです。
そして、その人々を思いつつ、自分に問います。自分は、どれほど人間として成長しただろうか。どれほど分別をわきまえたオトナになれたのか。精神的に強い人間になっただろうか。おかれている状況や、時々の気分に左右されない自分になれただろうか。たしかにすこしは自分が見えてきた部分があります。それは決して他人に誇れるような自分ではありません。人生が最終章に取り掛からねばならないのに、この未成熟でしかない自分。せめて、神に許しを請いつつ、他人には、つとめて寛容にならざるを得ない、自分の心があります。
けれど冒頭のパウロの言葉は心をはげましてくれます。だれでも<苦難>に直面して人生に行き詰まりをおぼえることがあるでしょう。苦難は、予想もしないところから突然降りかかるという部分もありますが、場合によれば、こちらが<苦難>を呼び寄せているという場合もなくはありません。
使徒パウロという人物は、とても変わり者だと感じさせられます。パウロは「苦難を誇り、苦難は→忍耐を、忍耐は→練達を、練達は→希望を、生む」と言い切ります。苦難の渦中ではわれわれは、苦難が何かを生み出すなど、到底思えないのです。苦難の中で、心悩ませ、心すさび、他人を巻き込み、周囲との人間関係に亀裂を生んだりすることがあるのです。だから一刻も早く苦難にけりをつけ、苦難と手を切ることを画策します。でもパウロ風に受け止めると、それは間違いです。
もし仮にこちらの問題で苦難を呼び寄せても、苦難は人を作り、鍛え、そして希望をもたらすというのです。そういわれれば、確かにそれはそうかもしれない。神がおられるなら・・・心病むその人に神が働かないはずがありません。問題はそのときです。だれでも自分自身の受け止め方、物事に対する自分の見とおしは絶対なのです。あやまちに満ちたわれわれの考え方、受け止めかたが絶対であるはずはないのですが、そうした状況では不思議にも、そう確信してしまうのが人間の心理なのです。まず自分自身のそうした思い込みを、脇に置くことが求められます。
悩みに悩み、心まどうなら、神に助けを求めましょう。そのときこそ信仰のときです。状況がよくなったら神を信じよう、とするのはさかさまなのです。神に希望を見せていただこう。
(2007年07月08日 週報より)