信仰はあなたを救う
ルカ福音書17章11-19節
主イエスがエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの間にあった重い皮膚病の病人の住む村に近づいた。苦しんでいた10人の人をいやされたというエピソードです。12、13節の内容から、そこが<重い皮膚病の人々の村>だと主イエスと弟子たちははすぐに分かった・・・・に違いない。その10人のうち、ただ一人だけが主イエスのもとに戻ってきて感謝をした、というのです。主イエスは「他の9人はどこにいるのか。」とお尋ねになりました。主イエスは感謝するために戻ってこない人々を責めたのではありません。その人々を、案じられ心配されたのです。そして主イエスは戻ってきたその人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。
現代人の多くは、他の9人の位置にいるのではないかと思われます。
重い皮膚病が古代社会においてどれほど恐れられたかは、今の日本では想像も出来ないほどだった。皮膚や体の一部が崩れてゆく病気そのものがもたらす苦痛に加えて、伝染病であることも、この見えない病をいっそう恐れさせる理由となった。逆からいえば、いったんこの病気にかかると癒されるための医学も薬もなかった1。重い皮膚病であると判明するとともに一般社会から排除され、戸籍を消し、家族から離れ、見捨てられたところに身を置いたのでした。
重い皮膚病の人のつらさは、社会から見捨てられることにあります。彼らは礼拝の群れからも消されたのです。祭司たちの所へ行って見せるのは、いやされたことを示して共同社会に復帰させてもらうためです。彼らは、主の言葉に従って「そこに行く途中で癒された」と主張します。しかし重い皮膚病は治癒しない病気だったのですから、そこで下る判定は有罪というか、それしかないのです。
その上、その日、癒された10人の中の一人はサマリア人でした。重い皮膚病の村で村民は何人いたのかは書かれていませんが、ユダヤ人とサマリア人との間には憎悪をきっかけに差別と争いの歴史が長いあいだ横たわっていました。ところがこの重い皮膚病患者の村には、両者の間に差別もハラスメントもありませんでした。主イエスが村の入り口に来られると聞いただけで、ユダヤ人・サマリヤ人の区別なく「主よ、憐れんでください」と心を合わせて声を挙げることができたのです。
そして、いやされる方法も医学もない時代に、そのサマリア人は自分が癒されたことを知りました。主イエスが自分たちに目を止めてくださった。
主イエスは問います。神を賛美するために戻ってきたのはこのサマリア人一人だったのか。
あの恐ろしい重い皮膚病から解放されたとは大変な奇跡を経験したものです。人は神による奇跡的癒しを経験することがある。思い返せば、今こうして日常生活が可能であるということは神の憐みを受けているからではないだろうか。私も神の憐みを幾度経験しているだろうか。それに見合うほどに神に感謝を表明しているだろうか。我々の日常は神を中心に回っているだろうか。
今週が、もうひとたびの信仰の挑戦でありますように。
それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(19節)
人によったら当たり前の日常でしかないかもしれない。しかし私たちの日常は主イエスを人生の出発と定め、中心に据えています。
2023年10月8日 礼拝メッセージより
- 1930年代に特効薬が発明された。 ↩︎