エイジングかアンチ・エイジングか?
最近<アンチ・エイジング>という言葉をよく聞きます。人は年々老化していきますが、気持ちはもちろん、外見も年齢より若く、時には美容整形も含めて若つくりをしていくようなことらしいのです。それにしてもアンチ・エイジングとはだいたんな言い方です。ひとは1年たてば1年分、年齢が進みます。これが人間です。20歳を迎えたら、20歳にふさわしいわきまえ、心構えを備えることこそ、避けがたく大切な心構えです。それは高齢になればなるほどいっそう自分自身へ、言い聞かせるべきことではないでしょうか。アンチ・エイジングを施して自分自身を、数年分若つくりして見ても、加齢は無情にその努力を乗り越えていくでしょう。そもそも、アンチ・エ イジング―反加齢・・・などという現実など人間にあろうはずはありません。
アンチ・エイジングではなく、その年齢にふさわしく歳を重ねていく、ライト・エ イジングとでもいうようなあり方が受け止められていくことのほうが健全だと思います。ワインが年々熟成するように、人も年齢とともに熟成を重ねられたらどんなすばらしいことかと思います。しかし必ずしもそうならないのが人間の不思議さでもあります。そうなれないからこそ加齢に逆らおうとするのでしょうか。年齢を受け入れるのも、ひとつの自己肯定の業です。自分自身を受け入れることは、年齢を受け入れることでもあるでしょう。自己を受け入れることは、キリスト教信仰なしではありうるはずもないのです。
昨日の新聞記事にわたしは、涙しました。アメリカ、ペンシルバニアの伝統的アーミッシュの共同体にある学校が、銃を持った男に襲われたのです。アーミッシュの人々は近代的な生き方をせず、電気も、自動車も使わず、先祖たちの生きたキリスト教信仰を中心にして生きている人々です。絶対平和主義を掲げるメノナイト派のひとつのグループです。5人の子供たちが犠牲になりました。伝えられた内容によると、なくなった中で最年長であった13歳のマリアンさんは、犯人が10人の子供たちを殺害すると知ったとき、幼い子供たちを守ろうとして「わたしから撃ってください。」と進み出たのだそうです。そしてこれほどの残虐な結果に対して、アーミッシュの人々は「事の残虐性はともかくとして、われわれはこの人を許します。」といい、事件の起こったその日の夜に、自殺した犯人の家族を訪ねて、許しを伝えたというのです。アーミッシュの人々は全体では10数万人ですが、メノナイト派の平和と神学への貢献は大きなものがあります。これもアメリカのキリスト教の一面です。
キリスト教信仰こそ、究極の肯定につながるのです。わずか13歳の子供がこの恐怖の中で示した自制心は、年齢を超える大きな力を感じないわけにはいきません。自分にも与えられたキリスト教信仰という宝物。これが何かということを、なお問いながら、この年齢と身体を生きていこう。私は今週誕生日を迎えます。
(2006年10月08日 週報より)