主が生きてともにいてくださる
ルカ福音書24章13-43節
エルサレムから60スタディオン(11キロほど)の所にあるエマオという村に向かって、二人の弟子がトボトボと歩いていました。11キロ北なのか、南なのかが気になります。あれこれ調べますとエマオはエルサレムの真西(まにし)に存在した村ではないかということが推測されています。この二人の弟子、一人はクレオパと書かれていますが、もう一人は名前も不明な弟子です。クレオパの連れ合いと想像する向きもあります。名前がわかっていようがいまいが、クレオパもここにしか出て来ないほぼ無名な弟子です。一概に主の弟子と言っても、イエスとの関わり合いは様々です。ですからここまでは全くの無名の二人でした。けれどルカがこの美しい出来事を記してから、様々な画家がこの場面を描きました。カラバッジョもその一人です。食事の席について主イエスが祈りを唱え、パンを裂いて二人にお渡しになった時、彼らはその方がイエスと分かったが、その姿は見えなくなってしまった。32節に「道で話しておられるとき、私たちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして時を移さず出発してエルサレムに戻ってみると11人とその仲間が集まって「本当に主は復活してシモンに現われた」と言っていた。二人は主イエスの復活の顕現物語の中でも、私たちの心に残る物語となりました。
じつは、この二人は失望感に打ちのめされていました。エルサレムでは一部の女性、弟子たちが主イエスの復活を口にしていたのですが、そんなことは女性たちの戯言として、まともに相手にされていなかったのです。ところがそこに、見知らぬ旅人が会話に入り込んで、おまけに聖書の解き明かしをしてくれたのです。もう夕暮れでした。食事もしなければならないし、宿もどこかにとらなければなりません。見知らぬ旅人は先に進んでいく様子だったので無理やり引き止めて、一緒にもっと話してくれるように頼んだのです。「ここで食事をしてください」「もっとお話ください」。そうしているうちに、その方がパンを裂きワインを分かち合う所作で分かったのです。その方が主イエスだということが。
彼らは時を移さずエルサレムに舞い戻って、他の弟子達、使徒たちに主イエスとの出会いを報告しました。そうしているうちに再び主イエスがおいでになったのです。場面はまた食事の場です。主イエスは魚の一切れを食べたのです。おそらく、こうなると少し教会の雰囲気が変わってきたのではないでしょうか。主イエスに出会った人々が次々に登場します。しばらく前の絶望的な弟子達の感情から、希望と喜びが仄見えてくるような明るさが、そこに現れてきたのではないでしょうか。
クレオパと無名の弟子は他の弟子達と合流しました。そしてその場に主イエスが真ん中に立って「あなた方に平和があるように」と言って話し始めたのです。「彼らは恐れおののき亡霊を見ているのだと思った」(36-43節)・・・とあります。
そこにいた人々のうちで誰がそう思ったのでしょう。幽霊や亡霊は、祟りや復讐をもたらすと考えられます。弟子たちは主を裏切り、見捨てたという心の弱みがあります。主イエスは「なぜ疑うのか」と言います。裏切り、疑い、迷い、心の弱さは、こうした幽霊や亡霊の存在につながるのかもしれません。弟子たちの目に、最初どう見えていたのかが正直に語られます。
主イエスは亡霊ではないことを示すために、弟子達に手や足を見せられた。つまり十字架に釘付けられた傷跡を見せたのです。そこに立つ人が主イエスであることを証明して見せた。
「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がってる」(41節)
なぜ喜んでいたかというと、主イエスが復活したことを知ったからです。でも信じることがまだできなかった。これは矛盾していますね。でも人間の心というものは一挙に飛躍できないのです。目の前にいる方はまさしく主イエス・キリストに他ならないのです。でも彼は死んだ人ではないか。なぜこうなっているのだ。なぜここで話し、微笑んでおられるのだ。現にここにおられるのですから、これは本当に嬉しいことです。
復活とは、「まさか」「そんなことが」と誰しもが思うことです。目の前にいてさえも、信じ切れないほど大きな出来事です。でもそれは幽霊ではなかった。見間違いでもなかった。弟子たちは主イエスに受け入れられ、許され、そして愛されたのです。
(ヨハネ21章15-19節。弟子たちは魚を取る漁師をしていた。ヨハネ21章の時点で漁師出身の弟子たちは、まだ漁師として生きてゆくのか主イエスの弟子として生きてゆくのか決断が付きかねていた。それは単なる職業選択の問題などではなかった。)
主イエスはペトロに「あなたはわたしを愛するか」と3度聞きます。最初の二度、主イエスは神の愛を表すアガペーで尋ねます。ペトロは一般的な愛を表すフィレオーで答えます。三度目に主イエスはフィレオーを用いて訊ねます。主イエスはアガペーでは尋ねません。フィレオーを遣うのです。主イエスはまさにそこにまで降りていかれて、やがて命がけの愛に生きるようになるペトロを遠くに見つめつつ、今のペトロを受け入れてくださるのです。
キリスト教のメッセージである和解と許を、本当にこの心に生きえたら、日本も世界も変わります。どれほど社会は健全になるでしょう。主が復活してここに生きておられる。主と共に歩むところに、「まさか」「そんなことが」と思えるようなことが実現します。
2023年4月16日 礼拝メッセージより