種まきのたとえ(マタイ福音書)

マタイ福音書13章1-23節

Please accept YouTube cookies to play this video. By accepting you will be accessing content from YouTube, a service provided by an external third party.

YouTube privacy policy

If you accept this notice, your choice will be saved and the page will refresh.

この福音書だけが伝えている物語ではありません。新約聖書には4つの福音書がありますが、その中でマルコ福音書が最初に書かれ、それを基礎にしてマタイ福音書、ルカ福音書が書かれた。結果として最初の3つの福音書は互いによく似ているし共通の記事も多いと言われます。同じ理由でか、この種まきのたとえもマタイ・マルコ・ルカ福音書に取り上げられています。種まきの譬は大切な教えとして初代教会の中で広く語り伝えられ、また深く重んじられた教えだったのです

大勢の群衆がそばに拠ってきた。主イエスご自身は船に乗って、湖のほとりから少し距離を取った。群衆を岸に立たせておいて、いったい何を話されたのだろう。
まずお話になったのは「種まきのたとえ」でした。一応申し上げますと4種類の土地に落ちた種が、芽を出しそこなったり、枯れてしまったり、成長し損なったりしてしまう。しかし良い土地に落ちたモノだけが100倍、60倍、あるいは30倍の実を結ぶ。ここで何が問題にされるかというと、「聞くこと」。神の言葉を「聞くこと」こそ中心的主題であると言われます。
「耳のあるものは聞きなさい。」(9節)と言われています。クラシック音楽でも似たようなことが言えるかもしれませんが、心に迫るような美しい音楽も聞く耳なしには雑音にすぎないかもしれない。神様も何とか美しい御言葉、メッセージを発して神の心を伝えようと語りかける。

第一に「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。」(19節)
第二に「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。」(20,21節)
第三に「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。」(22節)

これらは神の言葉を聞くことから始まります。そこでマタイは、イザヤ書の言葉から人が神の言葉をいかに聴くかを解明しているのです。

『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく
  耳で聞くことなく、
心で理解せず、悔い改めない。
わたしは彼らをいやさない。』

12,13節

主イエスの言葉をいくら音声で聞いても、心から聞いていないのなら聞いたことにはならない。その御姿にいくら接しても、主イエスの力を知らないのなら主イエスを知ったことにはなりません。神の言葉が茨の中に蒔かれたとしても、一度は神の御言葉を聞き損ねた人であっても、神の招こうとしている世界なしに人の心は平安を見出せるはずがないのです。ですから人は決定的に主に出会う機会が必要なのです。耳のあるものは聞きなさいと言うけれど、人は神の声を聞く耳など持ってはいません。耳ではなく心なのです。私たちが心の向きを変えるなら、突然神さまが人生の真ん中に姿を現されることがあるものです。あなたの人生に神が見えないことのほうが不自然で不十分なことです。

神は「癒さない」と言っているのではありません。「悔い改めないなら癒さない」と言っておられるのです。条件が変われば耳のみならず舌も解放されるのです。マルコ福音書7章31~37節に、主イエスが耳が聞こえず舌のまわらない人をいやす出来事が書かれています。本当は、私たちは主が求める耳を元々持ち合わせていないのかもしれない。

2023年2月5日 礼拝メッセージより

おすすめ