主イエスのみそばに
記された表現から意味をとれば、主イエスが12人の使徒をたてられたのは<彼らを自分のそばに置くため>と述べられています。主イエスも孤独だったからでしょうか。無論主イエスとしては、12人には最後まで共に歩んでほしかったでしょう。深い尊敬と愛をもって受け入れらるべき主イエスに対し、人々は裏切りと嘲笑と十字架の死をさえ押し付けたのでした。
もともと人が心ひそかに持つ孤独、苦しみというものはどんなに身近な関係であっても共有したり、分かち合ったりできるものではないのかもしれません。ましてやあの地上の日の主イエスの苦悩と憂いを共に担うことなど12弟子になしうるはずなど不可能に近いことであったでしょう。
しかしそれでも主イエスは<彼らを自分のそばに置こう>としたのでした。結果は惨憺たるものでした。この12人は主イエスの弟子であることさえ否定し、裏切り、主イエスを十字架のもとに置き去りにしたのでした。そも主イエスが十字架において刑死されるとは12人にとって想像だに出来ないことでした。まして他ならぬ自分たちが裏切りの引き金になるとはあり得ないことであったのです。こうして十字架のうえで悶え苦しむ主を見捨てることになるとは、予想を超えた現実だったのです。というか・・・それだけでしかない自分自身であることが分かっていなかった。
なぜそうした存在でしかない12人を、主イエスはみそばに置いたのでしょう。12人を選んだのは主イエスによる無理解・思い込みなのでしょうか。いいえ。主イエスはすべてお見通しだったのです。すべてお見通しのうえで、それでもなお彼らと共にいてくださることを喜ぶ主が、今日も、今年も共にいてくださる。
2023年1月15日 週報の裏面より