大きな喜び

ルカ福音書2章8~20節

クリスマス説教2022

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12月25日。私たちはクリスマス礼拝を祝っています。そして今日という日は今年最後の主日礼拝を迎えています。1年の歩みを振り返るとき勿論それぞれに感謝や喜びが、おありだと思います。そしてコロナウイルス感染症はすでに4年目に入るでしょうか。その影響からまだ日本社会が脱出できない不安感はまだ強く、このクリスマス礼拝に出席予定だった数名がコロナに罹患して出席不可能と連絡してこられました。加えて、ロシア・ウクライナ戦争において核兵器が使用される可能性がますます避けられなくなっているのではないか、あるいはまた地球の温暖化による大雨、自然災害の大型化への不安が今年ほど指摘された年はありませんでした。

聖書にしるされているクリスマスの出来事においても不安と恐れは無縁ではありませんでした。中でもみ子イエスを宿すことになったマリアには当然のごとく、怖れがありました。万が一マリアの懐妊が不倫によるものと断定されたらマリアは石打ちの刑を宣告されたでしょう。それゆえに天使は「マリア、恐れることはない。」(ルカ1:30)と語りかけたのです。当然夫ヨセフにも心の痛みがありました。彼に対しては「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」(マタイ1:20)と告げられました。  

マタイ福音書は遠い東から(ペルシャ湾岸と言われますが…)ベツレヘム目指して占星術の博士たちが旅を続けたとありますが、どこまで信じてよい情報であったのか、その不安な情報にすべてをかけて黄金、乳香、没薬という宝物を携えてベツレヘムを目指した旅行は、さぞ不安に満ちたものであったに違いなかった。
そう見ればクリスマスの出来事に登場するほとんどの人物たちが、何らかの恐れ、不安を抱えていたことがわかります。人は神と関わるとき何らかの怖れを持つものなのです。怖れというか畏敬の思いかもしれない。いずれにしても、神が人に接近することで人々が感じ取ったのは、聖なる方が近づくことによる独特の緊張感なのです。それは一種特別な喜びであり、恐れであり、緊張なのです。羊飼いにしても非常な恐れに撃たれた(ルカ2:9でも幼子イエスに出会って神を崇めて恐怖は喜びに変えられた)。

私は60年近く前の年のクリスマスにおいて独特な神の迫りとでも感じる、特別な感覚を味わったことがあります、当時はNHKでも今より沢山のクラシックの音楽番組がありました。特にクリスマスイヴには多くのキリスト教音楽が流れておりました。それがなんという曲なのかは忘れましたが、その曲を聞きながら鳥肌が立つような感動に包まれたのです。それは音楽というより神の迫りでした。翌年わたしは教会に行き洗礼を受けました。そこは、ウイークデーはそろばん塾で、日曜日だけ時間貸しの教会となる伝道所でした。牧師の役割を担っていたのは米軍のアメリカンスクールの教師でいらした、献身的で情熱的な信徒伝道者でした。
わたしはその時間貸し教会を自分で見つけて、自分で決めた教会に通うことにした。けれど教会堂もなくオルガンもなかった教会で私が伺った福音は、純粋そのものの福音でした。わたしの耳に届いていたのは神の招きであったと今でも受け止めています。以来私は礼拝を欠席した記憶はありません。生まれて初めて出席した礼拝はザアカイの救いが説教のテキストでした。
神様は音楽番組を用いて私のようなものを福音に招かれたのでした。神は私たちを招きます。招きが響いているなら私たちの向かうべき方向は神から遠ざかるものではなく神に近づく方向であるべきです。私たちの心に迫ってくる神の働きかけを覚えるなら、それを無視して揉み消すのでなく、応える道を選ぼうではありませんか。

クリスマスは、神が幼子イエスをこの世に救い主として送り出すという決断が、現実の出来事とされた時です。クリスマスとは何か、最も端的に言い表した言葉が天使の言葉として語られます。
「天使は言った。『恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」(ルカ2章10-11節)
ここで(ここでもと言いましょうか)、畏れでパニックを起こしそうな羊飼いたちに恐れる必要のないことを告げて、逆に喜びの出来事が起こっていることを伝えます。初めは恐れを引き起こす神の接近が実はすべての人にとっての喜びの接近であることが明らかにされるのです、それが<まさしく>その日のことでした。なんだか禅問答ですが。

実はイエス・キリストの誕生日は何年何月何日と特定はされていないのです。あまりにひそやかであまりに貧しく、無名なご誕生でした。そうして神の御子イエス・キリストは歴史上のその時点に・この地上にお生まれになりました。その日をキリストの誕生日と定めたのです。その日は確かに2,000年以上前のある日の出来事でした。けれど私たち一人ひとりがこのキリストを私の主、私の救い主として受け入れるとき、その人の魂の奥底にはクリスマスの出来事が起こっているのです

聖書の物語は極論をすれば、アブラハムも、ダビデも、イスラエル民族も、イエスの弟子達も、ザアカイも、共通しているのは<再出発の物語>です。どんなに大きな心の傷を負っている人も、主の赦しの中で新しく生きる機会、新しい歩みに向かって人生をはじめるチャンスが与えられていることです。
どれほど汚れて、罪に深くなじんでいたとしても、主イエス・キリストはそこに光を差し入れて、私たちを新しく歩ませてくださるのです。

今、見通しのつかない不安が、世界をめぐっています。それはある意味では変革への機会なのです。そこから自分を正し、神によって変えていただく機会とするなら、まさに人間の行き詰まりは神の機会なのです。時に、人の生は、儚く見えます。儚くも、かけがえなく見えます。しかし儚く見える人間の生に、神が乗り込むと、空しい、儚い、心もとないと思える人間の生が、神の永遠性に繋げられていくのではないでしょうか。

2022年12月25日 礼拝メッセージより

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