いと小さきものに
最近は年齢のこともあり減りつつありますが、それでも仕事や立場も違いますから、一様ではないにしても、一週間のうちに私たちはかなりの人々と出会うことでしょう。そして中には初対面の人もあり、交わした会話、話の内容から相手を判断します。それは外見や言葉遣いによる判断ですから、到底正しいとは言いがたいものです。
聖書の中に、その人の人生を計る基準のようにいわれる言葉があります。マタイ25章31-33節です。その時「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座につく。そして、すべての国民がその前に集められるとき、羊飼いが羊とヤギを分けるように彼らをより分け、羊を右に、ヤギを左に置く。」
この世において人の目に隠されていること、曖昧なままにされていることは少なくありません。けれど神の目はごまかすことが出来ません。人々を右と左に分けるのです。そこではこの世に流通する基準-業績、外見、偏差値、財産―は何の意味も持ちません。神の基準は世にあって<いと小さきものの一人>を大切にしたかどうかが問われるのです。<いと小さき人の訪れ>は<イエスの訪れ>でもあるのです。「キリストは、飢える人、孤独な人、心痛む人の姿に身をやつしてこられる。」とマザーテレサが語った事があります。
人を助け、愛することは、主イエスを愛することです。イエスこそ最も小さなもののために十字架に上り、自ら、最も弱いもの、小さきものになられました。自らを投げ出し身を挺して救おうとされた相手は、実は私であり、あなたのためでした。
人間とは不思議な存在です。どんなに世間的に成功を収め、財をかき集めても、その心は不思議に満たされないのです。でも、主イエスのため小さきものへの小さき業は、それをする人の心を満たすのです。受けるものは深い感謝に満たされ、与える側は大きな神の祝福があります。
そこに不毛に見えた人生が生き生きとするひとつの方向があります。
牧師 小枝 功(2022年10月2日 週報の裏面より)