聖書の多彩な読み方

「旧約聖書と哲学」(岩波書店)の「はじめに」の中で、近代聖書学の解釈の手法が手短に紹介されていて興味深く読みましたので、ここで紹介させて頂きます。著者は関根清三氏で、岩波書店発行の「旧約聖書」の「イザヤ書」「エレミヤ書」の翻訳者としても知られています。
近代聖書学の研究手法を「モーセの十戒」を例に判りやすく説明されています。大別すると従来の「歴史学的解釈学」と近年注目される「哲学的解釈学」があるそうで、まずは「歴史学的解釈学」から説明されます。以下、本文からの任意抜粋です。

  1. 「本文批判」
    出エジプト記20章と申命記5章を比較しつつ、また預言書(エレミヤ等)に断片的に残されている「戒め」、ギリシャ語・ラテン語訳との異同、といった内容から元来の原典を推定。
  2. 「文章批判」
    十戒は前後の出エジプト、荒野放浪の文脈を断ち切るように挿入されているので、それら十の戒めの部分がまとまった文学単元と考えられる。
  3. 「伝承史」
    預言者ではホセア書4章2節やエレミヤ書7章9節に、十戒の第6戒から8戒、すなわち、殺人、姦淫、偸盗(ちゅうとう)の禁止が順不同に並べて言及される。これらと比較しつつ、十の戒めが集められて行った伝承の過程が、種々推測される。
  4. 「編集史」
    出エジプト記と申命記の十戒の本文で最も著しい違いは、安息日をめぐる第4戒の根拠づけの部分にあるが、前者は神の創造の業に倣って、後者は奴隷たちを休ませるために、安息日を守らねばならないと言う。ここに、それぞれの編集者の固有の編集意図が読み取れる。
  5. 「様式史」
    十戒の文学類型は基本的に法文である。場所場所に則した決議法ではなく、普遍的に命ずる断言法という様式を持つが、その生活の座はさしあたって、裁判と考えられる。
  6. 「伝統史」
    「殺してはならない」という第6戒に絞って述べるならば、「殺す」にあたる原語「ラーツァハ」は、あらゆる殺しを指しているわけではない。これは3つの場合を例外として指さない特殊な言葉と考えられる。すなわち、戦争と死刑の殺人、動物の屠殺を指す「ラーツァハ」の用例は、旧約聖書中にないように見える。
    とすると第6戒は、これら3つの場合を例外として許容しつつ、それ以外の無実のイスラエル人の殺害を禁止する、そのような意味であると解される。

以上「歴史学的解釈学」の各手法を日々の課題として研究がなされているそうです。

次に近年、上記の「歴史学的解釈学」に対し、根本的な疑義を呈したもう一つの解釈学として「哲学的解釈学」が説明されます。
上記第6戒を例に説明されています。以下本文からの任意抜粋です。

  1. 「ファンダメンタリスト」
    戦時の殺人は許されることをことさら強調し、例えば戦争の際のイスラエル軍によるパレスチナ人の殺戮を是として、そのお墨付きをここに読むかもしれない。
  2. 「旧約聖書の全体の思想の本質を踏まえたユダヤ教徒」
    旧約聖書の多彩な内容が、偏狭なナシャナリズムから視野の広いユニバーサリズムへと展開する成熟到達点を踏まえて、先の歴史的解釈のように「イスラエル人」を殺してはいけないという意味に第6戒の意味を固定するのではなく、人一般を殺してはいけないという広い意味に解することが妥当と考えるだろう。
  3. 「新約聖書を踏まえたキリスト教徒」
    マタイ福音書5章のイエスの第6戒解釈を想起するに違いない。つまり、殺人行為に至ると否とに関わらず、人に対して怒りや軽蔑の思いを抱くだけで、殺人と同罪だと主張しているように解する。
  4. 「現代の政治・経済の全貌を視野に入れた現代人」
    現代社会においては連帯責任の範囲は全世界的に拡大しており、世界中の飢えた人々、災害や公害の、また戦争や社会体制の犠牲者等々に、自分の行動半径を超えていると言って無知無関心を決め込んではならないということになるかもしれない。こうした社会を変革し、弱者の存在を未然に防ぐことの勧めも、第6戒は合意している、と解釈はここまで広げられる可能性があるだろう。

「哲学的解釈学」は、このような課題を負うのである。

このような2つに大別される解釈学は、敵対反目するのではなく、むしろ相補的な関係を築くべきであろう。「哲学的解釈学」は、客観的な「歴史学的解釈学」の成果を取り入れなければ、勝手な読み込みによる独善と偏見に陥る可能性があり、「歴史学的解釈学」は、「哲学的解釈学」の主体的地平を吟味することをしなければ、ただの思想的な無反省と研究意義をめぐる無責任に陥る危険がある。
この印象的な結語に、聖書解釈に当たられる研究者や聖職者の方々の労苦の一部を垣間見た気がします。

大澤 信之(2022年8月14日 週報の裏面より)

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