心を高く上げて

ガラテヤ 1章 6-13節

ほかの福音はない

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問題とされているのは教会であります。教会はイエス・キリストの教えに従って、敬虔な祈りと、人々が平和で祝福ある日々を送ることができるために、その奉仕を担う一つの場所だと思います。教会は、そうした本来の勤めや生き方を目指してきた。しかし時より批判をされるようなことが起こります。
例えば中世のカトリック教会においては信仰と全く無縁の、悪者としか言いようがないような人が枢機卿になったり、司教となったり、高位聖職者の位置が、お金で売り買いされる。スペイン市民戦争の時代には独裁者であるフランコ総統の強力な支持母体でもあった。ヒトラーが力を持っていた時代のドイツでは、大半の教会がドイツキリスト者運動としてユダヤ人の迫害に手を貸しました。ほとんどの教会の屋上には、かぎ十字の旗と国旗。そうした旗が掲げられていたことを、後々多くの人々が悔い改めて語っているところであります。
アメリカにおいては「アメリカの黒人差別問題に白人教会は冷淡である」とマーティン・ルーサーキングは嘆きました。また南アフリカの改革派の教会は、日本に多くの宣教師を送っていましたけれども、国内においてアパルトヘイトの批判は禁句でした。そうしたことが起こるのは、あり得ることなのでしょう。
キリストの恵みの中に導き入れられたが、間違った福音を告げ知らせているガラティアの人々にパウロが言う。「あなた方にはあきれ果てている。神に呪われてしまえばいい。」
そんなことを言う伝道者、パウロぐらいしかいないと思います。しかし、そう言わずにはおれない状況を教会は迎えてしまった、あるいは迎えてしまうことがある。

私たちは今、由木キリスト教会で信仰の生活を送っています。教会を建てるとすると、「将来的に人口が増えて教会の立地に則しているから」ということが一つ考えの中には入るのではないかと思います。ところが最初に教会が建てられた1937年の由木は凄い田舎だった。
戦前、この地にホーリネス教会があった。当時は非常に盛んで、奇跡的な癒しが行われたりして、村の人々が感動して次から次に教会に集ってくる。一時は毎日のように洗礼式が行われたと昔の人は言います。しかしながら教団の分裂が起こって、1942年には教団弾圧と解散命令が政府から出され、教会は内部崩壊してしまった。終戦前に由木の教会に集った人々の辛さ悲しさは計り知ることができない。
ついに多くの人々がキリスト教信仰に立ち返ることができなかった。それでもここに教会が欲しい、なんとかして教会を建ててほしいと願う少数の人々がいました。それが今の吉田観賞魚の創業者の夫妻であるヨシダ サダイチさんとタマさんであった。ここに教会があることは戦争前後に様々な苦しい思いをした人々の希望に基づくものでした。
ですから私たちは戦前戦中に由木教会が辿った歴史を見ながら、神の教会とはどうあるべきものなのかということを問うのです。いかにして神の教会らしく歩んでいかなければならないのかということを考えて目指していくべきなのです。

パウロは「他の福音に乗り換えようとしている」と非難しています。パウロが論したコリントの教会では道徳的な問題があったりもしました。そこでも「他の福音」という言葉が使われていますけれども、ガラテア書の非難の言葉は、はるかに強い。
パウロは6節で、「キリストへの恵みへと招いてくださった方から離れてしまった」と言っています。
今、このキリストの恵みにあることは計り知れない大きな出来事なのです。これこそ私たちが生きることの根本であり幸福の土台なのです。

以前あるテレビ番組を見てましたら、高額収入の男性の75%が妻や子供に暴力を振るっているというデータがあると報告されていました。年収さえ高ければ少しは幸せになるということでは全くない。当たり前です。我々は何もなくてもキリストによって生きていくことができる。キリストの恵みに生きること以上の幸せはないのです。
1984年だったと思いますけれども、私は7人ほどの牧師とともにアメリカの教会に招かれて、当時アメリカで最大の長老教会を牧会している牧師に会い、その教会で行われている伝導プログラムを見学しました。その牧師は善良で、とてもいい人でした。しかも教会が財力を持ち、巨大化し、メガチャーチになってゆく。案内する教会員は、こう私に言いました。「我が教会の牧師はいつでも、レーガン大統領(当時)とアポなしで会うことができる」。権力との近さを誇っていました。
けれど翌年、キリスト新聞を読んでいた時に愕然としました。その牧師が年次大会で「アメリカは悪の帝国であるソ連に核の第一撃を加える権利がある」と長老教会の全国大会で発言していたのです。それは長老主義ともキリスト教とも相容れない発言でした。

教会が大きくても小さくても、課題は常に目の前に迫ってきます。ガラテア書の言葉を持って、信仰義認を確信したマルチン・ルターは宗教改革に乗り出しました。しかし宗教改革は教会改革運動であって、新たな教派を作るものではなかったと思います。現代のカトリック教会は、当時とはすっかり違ったものになっているだろう。ですからルーターと同じ目線でカトリック教会を敵視して批判しても、それは見当はずれになるかもしれない。

私たちには、私たちの直面する課題があります。それは何かというと、「人間が救いを得るためには自分の力や財力で何かができるはずだ。神の恵みによってだけ救われるとする魂の救いだけではだめだ」と考えること。
それは我々の信仰生活の中で言えば「キリストの恵みによってだけ生きられるのかどうか」ということです。
我々はキリスト教信仰者ですから、キリストの恵みがなければならない者。それさえあれば一切を神様に委ねて、ただキリストの恵みで心満ち足りて、平安を得られるのだという確信に立つ必要があります。

そこには福音へのもう一つの問いがあります。なぜキリストの福音が「福音」なのか。
なぜなら、キリストの福音は、過去のキリストの十字架と復活の出来事ではなく、今ここにキリストが働かれるという福音だからです。キリストを信じるところに何が起こるか。キリストも働かれるのです。
福音を信じて生きるということは、キリストが共に働いてくださるという、キリストとの関わりに生きることだからです。これがなければ教会は教会でありえない。

人間存在は、いつもたくさんの課題や問題に囲まれています。年齢が進んだから少しは完成に近づいていくだろうと思うような人がいるかもしれない。でも多くの場合、私も含めて、自分の問題性に気づく人は少ないでしょう。私たちは神なしで、キリストの福音なしで、もう大丈夫などという余裕はどこにもありません。私たちはキリストなしでは一歩も前進していくことができない。神なしでという誘惑を断ち切って、神の声が聞こえてきたら、神の招きに向かって全力で神の前に進んでいきましょう。そのことが私たちには、かけがえのない大切なことだからです。

お祈り

神様、私たちは教会の過去の歴史を見る、過去の歴史を見つめる、そうしたところにおいて、パウロが呆れ果てたと。こんなにも早くキリストから離れるのか。私はあきれ果てているというような言葉を語っていますけれども、どうぞあなたの前にしっかりとあなたの御声を、この心に受け止めることができますように助けを与えてください。あなたが私たちの内に臨んでくださいますように。
あなたの御声を聞いたらあなたのもとに本当に駆け込んで、ひざまずいて、あなたの前に全力で歩んで行きたいと思います。私たち一人ひとりの上にあなたが望んでくださることを心からお願いをいたします。一切を御手に委ねます。イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン。

2022年7月17日 礼拝メッセージより

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