分かち合うクリスマス

2005年は戦後60年を記念する年でした。日本人にとってこの60年は少しでも良い生活を獲得するためという<大義>のために生きてきたようなところがありました。なりふりかまわぬ経済成長が、深刻な公害問題をもたらした事もありました。しかしともかく、その結果、いちおう、大半の人々は飢えることなく、日を過ごせるようにはなった事です。この60年間、さらに良い暮らしを、広い家を、車を、グルメをと目指して、我々日本人は生きてきました。ひとは、かなう生活の中で、それぞれにエンジョイすれば良いのですから、目標を掲げて生きて行く事が、べつに問題であるはずはありません。

ただ、そうした生き方は、他人のつらさを思いやったり、他人の苦しみを理解する繊細さを失う事につながったように思います。関心が、自分自身の生活を向上させる事だけだとしたら、他人への関心が多少薄れるのはやむを得ない事です。私たちは必死で生きなければならなかったのだから、それは、それで、やむを得ないといえば、そうかもしれません。しかし、こうなった中で、少し方向転換も求められます。こうした生活は、精神的には、エゴを研ぎすませた結果になったからです。気がついてみたら、世界には、とほうもない貧しい人々、困窮し、飢餓の中にいる人々が、多く存在するからです。世界で最も豊かな国、アメリカ合衆国ですら、絶対的な貧困の中で、いったん食事をしたら、次に、ものを口に入れる見込みのない人々が2千数百万人いると、伝えられています。

大半の日本人はおかげで(何のおかげ?)、食べるものに事欠く人は少なくなりました。ですから貧しくは、なくなったのです。でも<心>はどうでしょう。終始、初めから終りまで、自分自身に対しての関心しかもちえないとしたら、心まで貧しくなってしまったという事なのかもしれない。60年間そうして生きてきたのですから、そうした生き方が身についたのです。そうであれば、なおさら、方向修正が必要とされます。

『あなたがたは、私の主イエス・キリストの恵みを知っています。主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。』

コリント2 8:9

クリスマスは、幸せを分かち合う時です。神がそうされたからです。しかし、現実にはそうではありません。一見幸せそうな人は、ますます幸せそうに見え、一見して不幸な人はますますつらく、置き去りにされたような思いを強く持つのです。もし、そうなら(そうなのです!)、それは神が求めたクリスマスとはあまりにかけ離れたものです。だから、クリスマスに私たちは、心豊かになるために、この幸せを誰かと分かち合うのです。飢餓や紛争や貧困のために戦っているユニセフやACEFに献金するのもいい。いつもたったひとりで食事をしている高齢者や海外から来ている留学生や滞在者の方々を、クリスマスディナーにお招きするのも一つの方法です。

今は、衣食は足りたけれど、礼節も、倫理も地に落ちてしまった感があります。怒りやイライラがガソリンのように気化して、暴力を引き起こしかねない人が多くいます。60年は一つの時代の曲り角です。これを機に、平和と分かち合い、いかに心豊かに生きうるのかを探る時が来ています。

(2005年12月04日 週報より)

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