こちらの都合

3か月前、私たちの隣町ともいうべき相模原で障がい者19人が殺される事件が起こった。単に事件の大きさだけでなく、その事柄が意味する重大性からも様々なメディアで問題が指摘されて多くの声明・メッセージが発せられた。それは人間のいのちと死に関わる「優生思想」という私たちが抱え込んでいる根源的な問題に深く関わる問題だからである。障がい者は生きるに値しないという。社会の負担になっているだけだという。 そしてそれに賛同する声がある。もちろん反対する声もある。しかしただ反対するだけでいいのか。問題は、障がい者に留まらない。
上野千鶴子という人は、お年寄りの多くは自分を障がい者と一緒にしないでくれと思っているという。あるお年寄りは、脳梗塞により身体的な不具合が生じて障がい者手帳の申請をすすめられてもそれを頑なに拒むという。なぜだろうか? 考えられる理由はただ一つ、それはその人が健康なときに障がい者を差別していたから。恐ろしい話しである。そして悲惨な話しである。誰もが健康なままで最期を迎えたいと思う。「ピンコロ」というやつである。しかし、ことは思い通りにはいかない。多くの場合にヒトは年を重ねるに従って、どこかしら体の具合が悪くなる。必然的に障がい者となるのである。いや、もともと障がいがない状態というほうが、異常であると考えた方がいいのかもしれない。すなわち、私たちは本来様々な障がいをもって生活しており、それがたまたま表に表れていないだけで、年を重ねるとともに本来の姿になっていくと。障がい者を生きるに値しないとする優生思想、社会福祉を社会の負担と考える功利主義は根が深い。それは出生前の遺伝子検査によるスクリーニング、末期患者の安楽死・尊厳死の議論、臓器移植、人生を勝ち負けで結びつける自死差別、犯した罪を自らの死でもって償えとする死刑制度容認に至るまで連なっている。

日本の幼い子どもがアメリカで心臓移植手術を受けるために高額の費用を募る事例を目にすることがある。ある人は、そうした事柄を評して、同じ費用をアフリカの幼い子どもの予防ワクチンに使えば何千人という命を救うことができるはずだ、という。確かにその通りかもしれない。しかし何かが違う。何だろう? それは、比べてはいけないものを比べているのではないだろうか。こうした人のいのちを秤にかける考え方は、容易に一人の王さまのいのちを救うために、多くの若者を死地に追いやることになるだろう。
この話しは、イエスに高価なナルドの香油を注いだ女性に対して、そんなことをせずにそれで貧しい人に施しをすればよいと女性を咎めた逸話を思い起こさせる。そうした人たちは常に「そんなことをするぐらいなら、こうせよ」という。「こうせよ」という場合の「こう」に私たちも否定できない、もっともらしい事柄をもってくるから厄介だ。しかし、イエスが言われたように、これは両者を比較してどちらかを選ぶといったレベルの問題ではないはずだ。両方をすべきなのだ。「貧しい人びとはいつもあなたがたと一緒にいるのだから。」そして前者を非難するために、後者が持ち出されている。こうしたレトリックに私たちは気をつけなければならない。

末期医療の場面で、どこまで治療を継続するかが問題となっている。私も最近、経験した。単なる延命措置に過ぎない医療行為を断る尊厳死と植物状態となった患者の死をどの時点で判断するのかといった脳死に関わる議論は、悩み深い。唯一言えることは、そうした判断が決して私たちの都合でなされてはならないといったことぐらいである。本人ではなく、周りの都合で、負担継続に耐えられないからとか、空きベッドを作らなければといったことで判断されてはならないということだ。
世界でも最先端の高齢化・長寿社会を実現した日本で私たちはイエスが生きた時代とは全く質の異なるいのちと死をめぐる局面に立たされている。しかしそこでなされなければならないのは、イエスが示した根本原理であることもますます確かになりつつある。私は、相模原事件に対して断固とした抗議声明を出さない日本政府に対して断固とした抗議声明を出したい。

五十嵐 彰 (2017年11月13日 週報より)

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