聖書の沈黙

パウロは最晩年に第3次伝送旅行を果たし、やがてローマで穏やかな幽閉生活を経て、おそらくは皇帝ネロの死の直前に処刑されたらしいことが伝えられています。人生なすべきことはすべてやり尽くし満ち足りた思いで死についたパウロと正反対に、皇帝ネロの最後は悲惨であったことが予想されます。使徒言行録は次の言葉で締めくくられます。

パウロは、自費で借りた家に丸2年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国をのべ伝え、主イエスキリストについて教え続けた。

使徒言行録 28章 30,31節

パウロの死は殉教だといわれています。もしそうだとすると皇帝ネロによるパウロの殺害の時はある日突如として起こったといえるかもしれません。しかしやはりパウロの最後はそれでも満ち足りた勝利に満ちた死であるにちがいありません。じつはパウロの死の直後に起こったローマ世界を脅かす重大な出来事がありました。当時ローマ帝国は世界に冠たる軍を誇っていました。ローマ軍は現在のスペイン、フランスからスコットランド近くまで、西はルーマニア、トルコ、パレスチナ、北アフリカほぼ全体。当時の文明社会を覆い尽くすほどの力を有していました。確かに小さな地域的反乱は周辺で起こったものの、ローマ全体を揺り動かす戦乱は帝国内で起こるはずもありませんでした。

けれどユダヤにおいてヘロデ大王、ヘロデアンティパスによるローマとの友好を進める政治家は姿を消し、その後ユダヤはローマによる直接統治にもどり、エルサレム神殿の宝物をローマ人が持ち出したことをきっかけとしてユダヤ人の怒りが爆発し暴動となったのです。そんな感情的な反発なら瞬時に抑えられるのがそれまでのローマだった。ところがこのユダヤの反乱は66年に勃発し、制圧できたのは74年に至ってからであった。この反乱を後押ししたのはローマ宮廷内の皇帝ネロの目に余る独裁と近親への殺害に対するローマ内部の混乱だった。直接的にはガリア(つまりフランス)総督だったガイウス・ユリウス・ウインデクス将軍による反乱だった。反乱はスペインにまで火が付いた。ローマ人から見れば、ユダヤ人の反乱など蚊に刺される程度のものと感じたことでしょう。しかし皇帝ネロが送ったローマ軍団はユダヤ反乱軍を前に大敗を帰し、結局反乱制圧には7年の年月を要したことになります。戦争の帰趨は単に武力や国力だけでないことはヴェトナムやアフガニスタンの例でもわかります。民衆の力は侮れないのです。ただユダヤ戦争をすることによってユダヤ民衆の受けた損害は途方もありませんでした。しかもその後ユダヤ人は2000年流浪の民となったのでした。

ただ時折キリスト者として不思議な思いに駆られることがあります。時代を経て編纂された新約聖書にローマとの戦争については一言も言及されていないのです。戦争が始まろうとすると社会は人々に愛国的になることを要求します。すべてのユダヤ人は、ユダヤの伝統に帰依すること、愛国的であることを求められていたでしょう。キリスト者とキリスト教会もそうした圧力は当然かかったはずです。しかし教会はユダヤ人も多かったけれど、むしろ非ユダヤ人もかなり多くなっていた。そうした社会情勢の中で教会は大いに悩んだと思います。しかしおそらくそうしたユダヤ的圧力には屈しなかった。やがてローマ人でさえも次々とキリスト者となる人々が生まれていました。狭い国家主義には身を委ねまい。教会はそう決断し、偏狭なユダヤ主義を卒業した…と言えるのではないでしょうか。やがて新約聖書はギリシャ語で書かれ、ユダヤローマ戦争のことは新約聖書には1行も載らなかった。…というのがわたしの推測です。

(2015年11月22日 週報より)

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