永遠不変の神に導かれ
神は人の人生に思いがけない状況を造り出したり、神独自の方法をもって,私たちをその民の一人としてくださいます。私たちは周りからどう見られようと<神の民>の一員であり、<礼拝共同体>のひとりです。人の思いはその時々の状況で、言わなくてもよいことを口走り、我を忘れて感情に振り回されることがあります。それは他人の目からみると、あれでもクリスチャン?と<神の民の一人>としての評判を傷つけますが、神の目からすると、少しも変わらない<神の民の一員>であり続けます。
旧約の預言者アモスは、ユダの国の小さな村テコアの羊飼いの一人でした。彼はある日、神の語りかけを聞きます。
「地上の全部族の中から私が選んだのは お前たちだけだ。」
神はイスラエルとの間に特別な関係を結び、イスラエルは特別な紙の関係に生きるはずでした。しかし神は言われます。
「主はこういわれる。
アモス書2:6-8
イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに
私は決して赦さない。
かれらが正しいものを金で
貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。
かれらは弱い者の頭を踏みつけ
悩む者の道を曲げている。
父も子も同じ女のもとに通い
私の聖なる名を汚している。
祭壇のあるところではどこでも
その傍らに質に撮った衣を広げ
科料として取り立てたぶどう酒を
神殿の中で飲んでいる。」
聖書のイスラエルとは礼拝共同体です。礼拝共同体から信仰という価値観―というよりかれらのアイデンティティーを引き算すると、その落ち方は他の民族よりさらに痛ましい現実が覗いてきます。それはキリスト者にもつながってきます。むろんキリスト教信仰を生きる上にも、時に倦怠を覚えることはあるかもしれません。キリスト教信仰以外の価値観が魅力的に感じられることがあるかもしれません。圧倒的な神の愛が注がれていても、時にそれで当然と感じられたり、ほかに目移りがしてくることがあるかもしれません。
しかし神の熱情は不変です。イスラエルが重ねる背信の歴史にもかかわらず、神はさらに思いを込めてイスラエルを愛し続けます。やがて神はイエス・キリストを十字架に送られ、圧倒的な神の愛を示されるのです。イスラエルの歴史は私たちと無縁ではありません。神の愛は不変ですが、それは神の選びも不変なのです。いったん神の民の一員として私たちを選ばれた神は、同じ熱情をもって私たちを愛し続けられます。
私たちの一週間は、何の変哲もない雑事・雑音の中で中に過ぎ去ってゆきます。しかしそこに確かに存在する神の語りかけを聞き取ることを忘れてはならない。私たちは神の民の一員。私たちのよって立つ真のアイデンティティーは信仰共同体の一人なのです。
(2013年10月27日 週報より)