十字架を背負って!
どの時代に生きようと、どの国に住まおうと、人は十字架を背負って生きます。たとえば、どの国でも、大富豪と言われるような、とても富んでいる人がいる一方で、ひどく貧しい人がいます。絶対的貧困者というのだそうですが、1日1ドル、つまり1日76円以下で生活している人がそれに当たります。アメリカは世界で最も富んだ国です。けれど統計からすれば日本の絶対的貧困者は4%、アメリカは15%の人がそれに当たります。大雑把に言うと日本の絶対的貧困者は四百八十万人に対し、アメリカは四千七百二十五万人もの多くの人々がこうした状況におかれています。きびしい生活を強いられている人がそれほど多いことにあらためて驚きを覚えますが、その上アメリカでは1%の富裕者達が、50%の資産を独占的に保有していると最近しばしば伝えられます。
<絶対的>と言う形容詞(?)をはずしても、だれが富裕層に属し、だれが貧困層に身をおいているかは、たまたま与えられたその人の個々の状況によるのであって、本人の努力や人格の高潔さとは関係ありません。人生は限りなく不条理に満ちているし、限りなく不公平に見えることも多いのです。人間の社会は競争社会で、競争原理が働きますから、基本的にどんなことも他人と比較します。そこには当然のように歴然とした能力差があります。
たとえば運動能力です。100メートル走でもがんばって走っているのに、らくらくと走っているトップの子との距離はみじめに離れていくと言うことを何度味わったことでしょう。むろん勉強でも、語学でも、自分には能力がないと言うことを何度思い知らされたでしょう。
<自由・平等・博愛>はフランスの国旗・三色旗の現す理想ですが、新約聖書にあるイエスのたとえ話によると、人にはそれぞれ10タラントン与えられた人、5タラントン与えられた人、1タラントンだけ与えられた人の話がでてきます。(マタイ25:14-30) タラントンとは貨幣価値でもあるけれど、能力・才能(賜物)のことです。イエスは人間の能力に差があることを承知の上でこの話をされたのです。ということはイエスは人間の平等性には関心がなかったのでしょうか。というより能力や才能はそれぞれ違っていて面白いといえます。世の中の人がすべてモーツアルトのような天才一色だったら、なんとつまらないことでしょう。そして音楽では抜きんでた天才振りを発揮したモーツアルトも、日常生活ではあきれるほどのばかばかしい行状もあったのです。主イエスは、何もかも10タラントの賜物と才能にあふれた人などいないことをご存知だったに違いありません。
生身の人間は、ダメな自分、境遇に恵まれない自分、何らかの能力に欠ける自分、不遇な自分、お金のない自分、つらさを抱えている自分を持っています。つまり10タラントンの人に較べれば、1タラントン以下の自分があります。それでも、そういう自分でよしとすることが大切なのです。与えられた境遇を<不遇>と受け止めてムクレ顔をするより、神さまが与えてくださった自分の生の場を感謝して生きるほうがはるかに生産的で、そこからは未来がゆたかに開かれていくはずです。
他人が自分に向かってお前はダメだ、という声はいくらでも響くでしょう。でも、自分に向かって、ダメな人間と言い聞かせるのは、やめるべきです。あるがままのわれわれは神の傑作なのです。少なくも神はそう確信して、あなたを世に送り出されたのです。希望と祈りをたずさえて、十字架を負う日々は神の恵みが宿るのです。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、私に従いなさい。・・・人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしてはなんの得があろうか。」
ルカ9:23,25
(2011年10月30日 週報より)