あなたはキリスト
マタイによる福音書 16:13-20
本日の聖書の出来事が起こったのはフィリポ・カイサリアというところです。カイサリアーつまりローマの皇帝カイサルという名がつけられた町です。聖書辞典を見ると紀元20年にローマ皇帝アウグストがヘロデ大王に与えた所領(領地)です。でも思えばここはイスラエルですから、ローマ皇帝からいただいたという話そのものが、ユダヤ人にとっては我慢ならない出来事です。この時代はヘロデ大王の息子ヘロデフィリポがここを治め、もう一つの町カイサリアと区別するためにフィリポ・カイサリアと改名したのです。皇帝アウグストとはローマが帝政になった最初の皇帝です。主イエスがお生まれになった頃、人口調査を命じた皇帝です。この人はやがてユリウス・カエサルの養子として迎えられた人です。BC43年にカエサルが暗殺されたとき真っ先にローマに飛んでゆき、BC31年にオクタビアヌスは皇帝に推挙されるのです。オクタビアヌスという人は見かけは弱弱しい印象があったと塩野ななみは述べています。病弱で腹巻と毛の帽子がいつも必要だったといわれます。逆を言えばそれだけに狡知(こうち=ずるがい知恵)に長けていたといえるのかもしれません。
そうした、世界で最も強力な権力者、ローマ皇帝の支配がおよぶ場所で、主イエスは弟子たちに向かって「あなたがたは、わたしを何者だというのか」とお尋ねになりました。
これは洗礼式における一種の信仰試問会のような響きがあります。けれど場所は全く教会的ではない、世俗そのものが支配する場所です。主イエスはなぜエルサレムの神殿やナザレの会堂を選ばなかったのだろう。そこでは、より信仰的な言葉が語られやすいだろうに。でもここでは宗教的な仕掛けは何もありませんが、「ペトロ、あなたはこころの底からあなたは私をどう思っているのだ。」
そうした世界中の権力者の思惑が集まる場所で、主イエスはご自分を他人以上に低くされて、もっとも卑しいもの、軽蔑されている者の一人として歩まれました。普通、身分の低いものに人は近づかないものです。しかしその卑しめられているはずの主イエスには、隠されているはずの気高さがあった。主イエスには徴税人も金持ちも、女性も異邦人も、近づいてきた喜びや恐れを感じないわけにはいかなかった。
主イエスと私たちとのかかわり合いは単なる友情というものではありません。むろん主イエスと繋がっていると何らかの得をするというものでもありません。もっとも特徴的な関わり合いは、主イエスに祈る。そこから「信仰の世界が広がってゆく」という世界です。私たちには、かけがえのない友人がいるわけですが、主イエスとのかかわり合いは、遥かに、より深い関係といえるかもしれない。私たちはイエスの名によって祈ります。そうして自分が変わった。
なぜ主イエスは私たちに祈ることを求められるのでしょう。主イエスは私たちの告白や祈りがほしいのです。それが正しいか間違っているかではなく、その告白自体に意味があるからです。夫婦や親子関係でも何年も傷のある言葉を投げかけ合っていたら、やがて決定的な亀裂に立ち至ります。だから家族や親しい人には愛してると伝えるべきなのです。
主イエスは彼に出会うすべての人に、繰り返し、直接的に、間接的に、しかし明確に、何度となく「私をだれというか」と問うのです。弟子たちは、イエスキリストとはどういう方であるかということを主イエスが語られる通り信じられず、自分たちの思い・常識・知識によってひとつの像を作り上げていたのです。それはイエスとは無縁の姿であり、現実の主イエスの姿とは遠く離れていたのです。
主イエスが十字架にかからないですめば、どんなによかったことでしょう。主イエスを迎えたこの世は罪と憎しみが、敵意と闇の力が満ちているところです。それは神の目からは許しがたい現実です。正義の神の目からは、悪を放置してはならないのです。裁かずにはすまないところです。イエスキリストは人間が受けるべきすべての罪を引き受けて、自らを十字架の上で引き裂いたのです。十字架はあまりにも残酷です。でも神が痛んでくださっているからこそ、人も、その深い痛み悲しみ、こころの傷も、神が共にいてくださり、癒されるのです。
重い病気、癒しがたい病気、こころの傷、試練、こじれた人間関係。私たちの心が痛む現実は限りなくあります。しかし主イエスはそのすべてを担い、経験し、われわれ以上に痛んでくださった。そしてわたしたちの傷みを共に担ってくださいます。
ペトロの信仰告白、その言葉自体は見事でした。しかし、その中身はまったく別のものでした。その無理解のゆえに、大きな失敗をした。私たちも信仰の告白をしながら、自分の願いに答えてくれるだけのキリストを求めがちです。でも、どん底までわたしたちを手放さない主イエスがお出でになる。この方を見上げて、このレントのときこそ「あなたはキリストです」と告白したいものです。
(2021年03月07日 礼拝メッセージ)