勇気を出しなさい
ヨハネ 16:25-33
ヨハネ福音書16章は、十字架を前にした主イエスの遺言といわれ、地上に残される弟子たちのうちに迫り来るであろうユダヤやローマの権力からの迫害が予測されています。主イエスはそれを母親が子供を生む苦しみと、喜びにたとえているのです。これに対して弟子たちは<30節>で
「あなたが何でもご存知で誰もお尋ねする必要の無いことが今、わかりました。これによってあなたが神の許からこられたと、私たちは信じます。」
と答えます。けれど<わかりました><信じます>という動詞が心にひっかかります。じつは何もわかっていなかったのです。ですから信じてもいなかった。そう錯覚していただけのことです。でも主イエスは弟子たちがわかっていないことをよくご存知だった。ですから主イエスは31,32節で言われます。「今ようやく信じるようになったのか。だが、あなた方は散らされて自分の家に帰ってしまい、私を一人きりにする時が来る。いやすでに来ている。」
思えば人生にはさまざまな躓きがあります。教会に来ていてすら、弟子たちのようにイエスのもとにいてさえ躓きから自由にされているわけではありません。
▼教会は聖徒の集まり、すばらしい人の集まりだと思っていたのに、よくよく牧師の現実を知ると、自分の想像と期待はずいぶんかけ離れたものだった。牧師の言動に躓きを覚えた。
▼また信仰を持って社会で行き始めたら、社会的な通念と、信仰的な理想はおりあわなかった。何とかして折り合いをつけなければならないところを、信仰を手放すか、逆に社会との接点を嫌って教会に閉じこもるかしかないと思いつめる。
▼さらに何よりも躓きに感じるのは、自分自身のことです。自分の弱さや自分の罪に躓くのです。
人が、もし、そうした自分自身の問題性を見つめて、自分に躓くということがあるとしたら、別の意味で大切なことのように思います。最近は社会全体が心病んでいる様相がありますから、他者攻撃的です。問題は他人にあるのであって、自分が悪いのではない。そう考える受け止め方が多いのです。ですから今日自分自身のことで悩んでいる人がいたら、その躓きはとても意味があるものだと受け止めるべきです。まさに弟子たちにはそれが必要だったし、現に見事に躓くのです。その躓きは回避してはならないのです。それによって見事にひっくり返ったらいいのです。自分自身の問題性に躓かないのなら、そこからイエスを本当に仰ぐことにはならないのです。その人は常に他人を問題にし続けるでしょう。時にわかっていると思っていたことがわからなくなり、主イエスすら見えなくなるときがあるかもしれない。でも、その出来事がべつの、さらに高められた結果につながり、新しく主イエスに、深く、太い絆で結ばれて、他者に対し、自分自身に対して肯定的に、受け止められることにつながるのです。
そして16章の最後で、主イエスは言われます。33節
「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」
弟子たちがイエスの勝利の現実を知るのは、だいぶ後のことです。主イエスの復活の後、復活の主イエスに出会ってすら半信半疑の状態でした。彼らはおずおずと信じていった。だからこそ主イエスはこうして勝利の宣言を私たちにも聞かせてくださいます。
時折アムネステイの報告書が教会に送られてきます。アムネステイは世界的な人権擁護団体です。世界中で政府と反対の考え方を持つ人々が逮捕、投獄されています。かつて南米のいくつもの国々では、アメリカの軍で訓練を受けた軍人たちが、クーデターで軍政を引いていました。アルゼンチン、ペルー、ブラジルなどで人権抑圧が目立ちました。特にペルーでは、一度に数千人が逮捕され、その人々はサッカースタデイアムに収容され、誰一人戻らなかった。最近多くのところで、おびただしい人骨が掘り出されます。そうした人権抑圧が1960年代、70年代に中南米で起こりました。
ヘンリー・ナウエンさんーカトリックの著述者で、ハーバードの神学部の教授職をなげうって、障碍者の施設ラルシュで献身に生きた方です。この人の小さな書物「イエスとともに歩く。」副題-十字架の道ゆき-の中に次のような一節があります。
1980年の12月、イタ・フォード、モーラ・クラーク、ジーン・ドノバン、ドロシー・ケイゼルの4人が、エルサルバドルの首都サンサルバドルと空港を結ぶ路上で、残酷にも殺害されました。国外で短い滞在を済ませた後、家へ戻るところで、エルサルバドルの軍隊に留められた彼女たちは、強姦され、痛めつけられ、殺され、牛の牧草地に掘られた共同墓地に、その遺体を投げ込まれたのでした。いったい彼女たちが何をしたというのでしょうか。彼女たちはエルサルバドルの貧しい人々の世話をしていました。家や村から追われ、孤立した山の中で、生き延びようとしていた人々に、食べ物やや薬を届けようとしていたのです。この4人の信仰厚い勤勉な女たちの唯一の望みは、ひどく苦しんでいる隣人たちを、少しでも楽にしたいという思いだけでした。そして憎しみと暴力のただなかにあっても、人々は愛し合うことができる、そのことを示したいと思っていただけでした。
しかしながら彼女たちの思いやりと心配りは、抑圧者たちの怒りに火をつけたのです。そして死のリストに彼女たちの名前を載せたのです。抑圧者たちは彼女たちの存在そのものに、我慢できませんでした。彼女たちはこの地上から消され撲滅されなければならなかったのです。彼女たちの素朴な存在が、命の敵であるこの人々には耐えられないものとなったのでした。憎しみは、露骨で、あからさまなものとなりました。
彼女たちが殺され、その死体に土がかけられ、間もなくしてその死体が発見されました。友人や、その付近の貧しい人々が、言葉にならない悲しみのうちに立ちつくし、罪なき女たちの虐殺を怒りをもって見つめています。大きな悲しみが人々の心を刺し貫き、全世界へ向けて悲しみが叫び声をあげています。
「イエスとともに歩く。」-十字架の道ゆき- (99,100)
現在ではアフリカのダルフールで組織的な殺戮がなされています。そうした中である女性の政治犯について書かれているものがありました。彼女は捕らえられて、劣悪な独房に放り込まれました。ひどい扱いと拷問の続く毎日。その中で彼女を苦しめたのは、秘密警察の男が「誰もお前のことなど心配していない。お前は一人孤独の中で、ここで死んでいくのだ」という言葉だったそうです。ある日食事だといって差し入れられた干からびたパンが投げ入れられました。ところがパンを割ってみると、小さな紙切れが出てきて、ひとこと、「希望を持て」と書いてあったそうです。このことが消えかけていた彼女の心を励ました。驚くほどの勇気と力が与えられ、投獄の日々を彼女は見事に乗り切ったのです。
私たちは決して孤独ではない。かつて主イエスは、「私は一人ではない。父がともにいてくださる」といわれました。この主イエスが聖霊としてわたしたちとともにいてくださる、といわれます。たとえどんな問題があろうと、どんな困難があろうと、孤独と惨めさに変えて、主は勝利と慰めを見たらしてくださるのです。
主イエスの勝利は私たちの弱さと罪に向かって働くのです。人間はじつは本当に弱い存在です。自分自身の問題にすら目を向けることができないのです。弱さのゆえに罪を犯し、悔い改めて今度こそは、そう思いながら罪を犯す。あの人は強い、そう見えていた人が罪を犯す。思いもしない弱さをさらけ出す。思いもよらない罪を犯す。それは決して他人事ではなく、じつは自分の姿でもあるのです。弱さと罪は、ぬぐいきれないものなのかと思うことがあります。
たぶん、私たちは自分で、自分を強くすることはできないものなのかもしれない。だから主イエスが私たちを強くすることがおできになる。主は私の弱さの中に働いてくださる。罪にも、弱さにも、必ず勝利を与えてくださる。だから他人を問題にすることはない。繰り返し弱さと罪に陥りながら、なお悔い改めて立ち上がって、弱さと罪に戦う力を神に求めたらよいのです。目に見える世界は信仰の力では対抗できない、抵抗不可能な絶望的な出来事というのは最近多くあります。超大国のエゴ、拉致や人権抑圧を平気で行う独裁者、他人を、子供や女性を物のように扱おうとする人々。
主イエスは弟子たちがやがて、主ご自身を捨てて、くもの子を散らすように逃げてしまうことを知っておられました。
それでも決して弟子たちをあきらめたり見捨てたりははしませんでした。自らの体なる教会をゆだねる気持ちには少しも変更はありませんでした。弟子たちはキリストの例である聖霊とともに、聖霊に導かれ、変えられていくのです。だから、勇気を出しなさい、といいます。そして私たちにも語られます。
あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」
(2020年05月17日 礼拝メッセージ)