復活の命に生かされて

マタイ福音書 28:20

イースターおめでとうございます。

たしかに新コロナ感染症の脅威の下にローマのヴァティカン礼拝堂でも、バッハが務めたライプチッヒのトマス教会でも、世界の名だたる礼拝堂での礼拝が、今朝は会衆なしです。でも私には次のキリストの言葉が響いてきました。
「これらのことを話したのは、あなたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

今日は2020年のイースターです。イエスのお弟子であったマタイによって書きしるされたマタイ福音書の最後尾にイエスは次のように語られました。
「私は世の終わりまで、いつもあなた方とともにいる。」
マタイ福音書を特徴付ける一つの言葉があります。それは<インマヌエル―神ともにいる>という言葉です。この言葉はマタイ福音書冒頭で幼子イエスの誕生においてに語られ、そして福音書の最後はこの言葉によって締めくくられます(28:20)。 主イエスの弟子たちは、皆様ご存知のように12人おります。12人いて本当は弟子たちなのですが、主イエスは最後の最後で、十字架につかれます。弟子の中で会計を務めていたイスカリオテのユダが、主イエスを裏切り、自死してしまったゆえに、ここでは弟子たちの数は11人です。しかし弟子達と呼ばれるものの、その中心人物であったペトロも、問い詰められて、三度、イエスと言う人など知らないと、否定してしまった。それでもペトロはイエスが裁判を受けるその場に踏みとどまっていたのですが、ほかの男性の弟子たちは逃亡して、その場にいませんでしたから、裏切り者とされたユダとほかの弟子たちの違いは、見方によればさほど大きくはなかったかもしれません。彼らは復活した主イエスに徐々に導かれ、新たにイエスの弟子として歩むことを再出発します。40日の間、復活されたイエスに導かれました。そして、いよいよイエスが天に帰られるとき「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らに洗礼を授けよ。」という命令をイエスは弟子たちに与えたのでした。

失敗して欠員のある11人。信仰的にはもちろん、精神的にも自己崩壊していた11人。こうした人々が「全世界に出て行って!」といわれても、誰が、どう見てもできるはずがない・・・としか思えないのです。でも、主イエスはそう命じた。そしてすぐに続いて、「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」と付け加えられました。

この言葉は弟子たちに向けられた言葉ですが、私たち自身にも向けられています。

弟子達には何もありませんでした。でも、これだけは信じた。信じないわけには行かなかった。そこから希望が生まれていったのです。でも、目の前には復活した主イエスがいたのです。過去がどうであったとしても、将来がどう運ばれていくか分かりませんが、ともかく、今日ここに共にいてくださるキリストを信じたのです。 弟子たちは力ない、ダメなものでしたが、勇気をもって、これを受け止めた。

非力な11人でした。しかし数十年後には、たぶん20年後くらいという学者がいます。ローマ帝国全体に教会が生まれていたのです。20年であの弟子たちが世界を変えたのです。それは弟子達の能力や、やる気の結果ではなく、やはり共にいてくださったキリストの故としか言いようがないのです。わたしたちの生涯も、全面的にキリストを見上げて生きる道と、そうでない生き方の二つがあります。

わたしたちの日常生活で、繰り返す毎日は、わたしの場合、そこで何かが完成していくというものではありません。才能あふれる人なら、次の世代に向かって、さすがと言わざるを得ない名前入りの功績を残すのかもしれない。でも、私の場合、わたしが願っているようにことは進まないのです。しかし、それも悪くはないかもしれない。 今は、こちらの思うようにことが進んでいないとしても、実は私の生涯も、神が【ともにおいでになった】からこその人生であるはずです。神がおいで下さったから、成り立ったものなら、大小は問題ではないのです。

主がよみがえって、わたしのところまでお出で下さった。これ以上の喜びはありません。

(2020年04月12日 礼拝メッセージ)

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