神の招き

ルカ福音書16章14-31節

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冒頭から「金に執着するするファリサイ派の人々が」という主語から始まるこの文章。そのように名指しされたファリサイ派の一人に「あなたはなぜそんなに金銭に執着するのですか」と尋ねれば、「わたしほど金銭にクリーンなファリサイはいない。そもわたしは誠実なファリサイ人で神第一主義を通しているのです。一つには長い経験とこの人柄をが受けて相談料が高騰してしまったが、これは私が要求したことではないのです。」と返ってくる。
行為としては神の言葉である律法に従っている。だから自分は誠実なファリサイだと思っていたのではなかろうか。しかし神様は、おもてに見える人間の行為ではなく、その行為をする人間の「心を御存じ」なのです。口では「神よ」と言い、自分でも神に従っているつもりでも、じつはそうでないことはいくらでもあります。もし十分すぎる報酬を得ているのなら値下げをすればよい。

主イエスは「あなた方は神と富に仕えることはできない」(13節)と仰っている。富も神さまが喜びとする使い方があるのです。ファリサイとして高利貸から適正な利益を得たらよい。けれどどんな職種にしても、私たちは自分ひとりを喜ばせるために富みを使ってしまう。それは富を使っているのではなく、富に使われているのです。富の分配・配分を巡って変革を迫られる問題が起こった。そのことには自分では気付かない。私たちは、自分のことは自分が一番よく知っていると思っています。それはまさにファリサイ派の人々だけの特徴でなく人間の致命的な過ちです。

主イエスは一つのたとえ話に展開なさいます。ある一人の金持ちとラザロという名の、全身できものだらけの貧しい物乞いが登場します。ある日この二人の人が同時に亡くなるのです。死後、ラザロはアブラハムのすぐそばに導かれたのです。金持ちは黄泉で苛まれます。燃え盛る炎の黄泉からアブラハムに嘆願します。しかしアブラハムは、「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、おまえは悶え苦しむのだ。」(25節)
アブラハムがいるところと金持ちがいる黄泉には深い淵があって越えることができない。そこで金持ちは地上に兄弟が5人いるから、ラザロを遣わしてこんな苦しい場所に来ることが無いよう、よく言い聞かせてほしと願いました。その願いに対してアブラハムは答えます。
「お前の兄弟たちにはモーセと預言者車がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」(29節)
問答はこう続きます。
「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」(30節)
「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」(31節)

神さまは私たちにとって一番良いことを考えてくださっています。。旧約聖書・律法は愛に行き着きます。律法は人を見下すために特定の人々に与えられたものではありません。神の愛は人間を救おうとすることに行き着くのです。聖書は生ける神の招きー招待状なのです。そのことを日々お受けして神さまの御前に進みましょう。

2023年10月1日 礼拝メッセージより

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