十字架を背負う

ガラテヤ書6章11~18節

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ここはガラテヤ書の締めくくりの部分といえるところです。11節にパウロは書きます。「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」
この文から推察できることは、6:10までパウロは秘書とでもいえる弟子に、口述しながら手紙を書いてきたのです。一人の人間として高齢に指しかかろうとしていたパウロは小さな字ではかけなかったのかもしれない。2千年も前の、メガネなど無い時代の事。ここにはパウロの気持ちがこめられていた。いよいよ締めくくりの部分に達し、最後の部分は自分で直接筆を執って書いたのです。しかも<今こんなに大きな字で>と記されています。パウロはこの部分を強調したかった。だから特別大きな字で書いた。そこにパウロの気持ちがこもっていた。真剣さをそこにこめた。

パウロは既に語ってきたことを蒸し返すように、いわゆる律法主義者、割礼主義者について語ります。ガラテヤの教会員はユダヤ人から見れば当然、異邦人です。彼らはイエス・キリストによって罪赦され、神のものにされるという福音を信じたのです。しかしユダヤの律法主義者は、それだけでは足りない、本当に人が神のものとされるためには割礼を受けねばならないと主張したのです。ガラテヤの教会を混乱に陥れたのはこの人たちでした。面倒なことに、この人々もキリスト者でした。パウロはこの人々が語る福音は<異なる福音>と呼び、福音を覆すものと言ったのです。

その人々について、パウロは12節で「肉において人からよく思われたがっているものたち」といいます。人は他人によく思われたい存在ですが〝だれによく思われたいのか〟が問題です。このユダヤ主義者としてのキリスト者たちは、エルサレムにいるユダヤ教徒・ユダヤの権威者達によく思われたい人たちだった。ユダヤの権威者達とはむろん、反キリスト教の人々だった。もっと言えば主イエスを十字架につけた中核のユダヤ主義者の人々でした。彼らは異邦人が割礼を受けることを喜んだ。割礼を受けるということは、ユダヤ教徒になることだけでなく、ユダヤ人になることでもあった。つまり、ユダヤ教徒が増え、ユダヤ人が増えることで、ユダヤの権威者達はこれを非常に喜んだ。

キリスト者である人々が、ユダヤの権威者を喜ばせ気に入ってもらって、その結果、手に入れようとしたことは、迫害を逃れることだった。パウロは言います。<ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに・・・>(12節)。
伝統的なユダヤ人にとって十字架とは罪人の処刑道具で、最も重い犯罪を犯して懲罰を受けた罪人の悲惨な最期を迎える場所です。そこで死んだイエスを救い主、神として宣伝することは赦しがたい暴挙です。彼らはガラテヤの人々の救いや信仰のコトを考えていたのではなく、自分の身の安全のみを考えているに過ぎないのです。

パウロは手紙を終えるにあたって、大きな字で、つまり声を大にして「わたしは述べたい!」と伝えるのです。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」(14a)
十字架を誇るとは、イエス・キリストの勇気や犠牲の精神を誇りに思うということではないと思います。つまり罪の世界に生きてきた古い自分が、キリストと共に死んで、新しく神が与えてくださった生を生きることです。そうしてイエス・キリストの生涯に自分を重ねるのです。そしてイエス・キリストに自分を委ねるのです。それはイエスお一人が裁かれたということではなく、人間の罪がそこで裁かれた、罪の支配がそこで断たれた、復活と同時に新しい命の時代が来たと言うことです。それが十字架の出来事です。キリストを信じながら、以前と同じようにエゴイスティックに生きることは不可能です。

福音に生きるということは、人生の拠点が据えられると言うことです。近年は日本において1000年に一度という震災を経験し、また恐るべき原発事故が起こりました。一度の原発事故で放射線セシウムの飛散量は広島原爆の168個分の汚染だと伝えられもしました。私のみならず、世界が変わりつつあるという印象を感じ取っている方々は少なくないでしょう。

夏が終わろうとしていますが、世界気象は大変動の時代を迎え、その根源には人間の根本的な生活のあり方が試されていると言われました。社会が個々に分裂し、家族、家庭内の暴力や虐待が報じられない日はないと言ってもいい社会が広がっています。わたしたちの住むコミュニティーのなかでも、人知れず孤独死する高齢者がいます。自分さえ幸せで、食べられていれば良いという小さな幸せを身上とした社会は、震災や原発や世界恐慌というグローバルな現象の中で困難になっていくでしょう。

ガラテヤ書のひとつの重要なメッセージは<新しい創造>です(2:19-20)。新しい創造とは、この世的なものに生きることに基準を置いていた古い自分が死んで、イエス・キリストを唯一の基準とし、拠り所にする新しい自分が誕生することです(2コリント5:17)

天地創造をなさったのは神でした。神は無からあらゆるものを創り出します。神が創造の業を行われるのは暗闇と混沌とした場所なのです。神は混沌から秩序を作り出されるのです。その神こそ、わたしたち―自分というエゴしか視野におかない人間存在を、新しい命と生に再創造してくださるのです。神はわたしたちに「あなたは新しくされた」と宣言されます。神の前におかれた人間、つまりわたしたちは、これに応答すべきなのです。そうして未来を築いていくことも一方に可能です。デモ、そうしないで適当に生きることも十分可能なのです。わたしたちは、神の前に生きるとすれば、新しくされた命にふさわしく生きることが求められます。そう努めねばならないのです。

2023年9月10日 礼拝メッセージより

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