過去を忘れることなく

ときおり聖書には驚くほどの正直さで人間の真実な姿が明かされる部分があります。

主の僕、ヌンの子、ヨシュアは百十歳の生涯を閉じエフライムの山地・・に葬られた。その世代がみな絶えて先祖の下に集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業を知らない別の世代が興った。

士師記2:8,9

アダムとエバの堕罪物語、カインとアベル、ノアの家族の物語、アブラハムとその一家の物語、エソウとヤコブの兄弟紛争。ヨセフを中心にした、父ヤコブと12人の兄弟たちの泥沼の争い・・・人間の物語としては興味の尽きない話ばかりですが、聖書を書き記した人々は信じられないほども正直さで、ユダヤを創り上げたはずの人々の罪を抉り出してやみません。人間とはどこまで愚かで、どこまで落ちていくか分からない心の闇を持っている存在かを語ってやみません。だからこそ神を信じることは、人間が人間として生存する原則的な基礎なのです。それでも人間は不完全で、過ちを犯しうる存在なのだといわんばかりです。

イスラエルの歴史の中で出エジプトの出来事と、ヨシュアに率いられて約束の地を獲得した出来事は忘れようにも忘れることのできないことでした。ところが一世代でしょうか、二世代でしょうか、ともかく数世代過ぎたとき、出エジプトの出来事も、約束の地に入ったことも、だれもかもが、完璧に、何も知らない世代が生まれていたのでした。申命記にはこう書かれていました。

今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返して教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。さらに、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額につけ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
あなたの神、主がアブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導きいれ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。

申命記6章10節-13節

あの偉大な出来事も、事前に言われていたことなのに、わずか数世代で完璧に忘れられたのです。人々は生活の場である約束の地が、どうしてここにあるかを問題にしなくなっていたからです。過去のことはもうどうでもよかった。ここで金を儲けて、技術を高めて、生活の質を高めることが第一の関心でした。過去を忘れ、そこに行われた神の業を完璧に忘れた社会にじつは将来はなかったのです。そこから歯止めの効かない士師時代の精神の荒廃が始まるのです。日本においてはかつてアメリカと戦争をしたことすら知らない若者がいると伝えられたりします。たしかに記憶は継承されにくい一面はどこでも、いつの時代でもありうるでしょう。ただ、イスラエル民族はそこまで先祖たちの過ちを指摘しながら、歴史の継承に心がけたのでした。

神に恵まれた過去を記憶しつづけることは、明日への力になります。神が今ここで、過去同様に、私たちを救うことが可能だからです。キリストの弟子たちも、目の前で主イエスが行われたこと、お話しになることについて、正直よくわからなかったフシがあります。しかし、やがて時が経過し、キリストの言葉と業を振り返る中で、深く納得していったのではないでしょうか。
過去を凝視する中でこそ、未来への展望が開けてきます。人は歴史的な存在なのです。過去に目をつぶる最近の社会の動き、とても気になります。

(2007年03月04日 週報より)

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